カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「大切なのは何を語ったのかではなく、何を行ったか」〜他人の子育て論を信じてはいけない 2

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ダニエル・リッジウェイ・ナイト 「庭でコーヒー」

【三度目の子育て】

「子どもが好きだから教師になったの?」
と聞かれて困ることがたびたびありました。もちろん子ども嫌いではできない仕事ですが、教員になった主たる理由は社会科の、特に歴史が好きだったこと。それを誰かに伝えたいと思ったこと、パフォーマンス的なことが好きだったこと、本来つきたかった職業に就けなかったこと、などが中心で、子どもが好きだとか嫌いだとかは関係ありません。
 もちろん年季を積んで様々な技能を身に着けるとそれを使って成し遂げられることも多くなり、そうした自己効力感も教員を続ける原動力になります。その点で個々の子どもにしょっちゅうはまりこんでいましたし大切にもしてきました。しかし好き嫌いで語れるような対象ではなかったのです。

 ただし就学前の子ども、乳幼児と呼ばれる頃の子どもは、無条件で好きで、母が言うには私が懇願した(「ボクのウチは赤ちゃん来ないの?」「いつになったら赤ちゃん来るの?」)から弟が生まれてきたようなものです。自分自身が子どものころから、乳幼児は一貫して好きだったのです。
 ですから二人の子どもに恵まれて育てたことは無上の幸せでしたし、今、そのうちの一人、娘のシーナが母親になって三度目の子育てに参加できることは、これまた大変な幸せだと言えるのです。

【昔の子育てと違う有利さ】

 弟育て、子育て、孫育てと三つを並べると、今回だけ明らかに違うことがあります。それはネットを通じて同世代の子どもたちをいくらでも見ることができるという点です。
 弟のときはもちろん、自分の子どものときでさえも同じ2歳児、3歳児、4歳児の様子を知ることはできませんでした。それが今はネット上に無数の子育てブログがあって、その気になればいくらでも見て比べることができます。それに付随してさまざまな情報を得ることもできる。良くも悪しくも、特別のことです。

「子どもを比べてはいけない」というのは昔から言われてきたことですが、それは「他人の子どもと比べて自分の子の至らなさばかり気にして、思いつめたり叱ったりしてはいけない」という意味で、周りを全く見ずに自分の子どもだけを見て育てろということではありません。他の子の様子を見なければ、わが子の長所も至らなさも、個性も特徴も見えてこないからです。
 ですからネットを通して様々な子育てを見ることはいいことなのですが、その際、少し工夫しなければならないことがあります。それは「その人が語っていないことについて、常に耳を澄ませていなければならない」ということです。

【うまく行く場合とダメな場合】

 うまく説明できないことなのですが、子育てがうまく行っている時に、その要素は山ほどあるのに、うまく行かないときは原因はひとつでもいい、そんな感じがしています。

 譬えとして(これもいいものとは思えないのですが)、超一級の料理を作るには材料の選定から包丁の使い方、火の通し方、調味料の分量、調理の手順、盛り付けの方法やらテーブルへの出し方やら、ほんとうに山ほどの要素があるのに、不味い料理を作るのは、調味料の分量を間違えるだけで十分です。完璧な料理を作ってもテーブルに出す際、器の端から指が少し内側に入っているだけで台無しになることだってあります。

 子育ては料理と違ってミスのひとつやふたつはいくらでも許されますし、取返しのつくことも少なくはありません。しかし十重二十重、三十回も四十回も悪手を打たなければ子どもはつぶれないかというと、そうではないでしょう。大事な場面で二つ三つミスを重ねるだけで、ダメなときはダメです。
 何をやっても大丈夫な子どもなんて、そうはいないのです。

【良い子の育ち方】

 逆に、誰もが感心するような立派な子というのはたくさんの要素から育ってきます。そのうちのどれひとつ欠けてダメと言った繊細なものではありませんが(そんなに繊細だったら、それ自体が問題です)、要素はそうとうな数になります。

 前回お話しした「わが子を東大に確実に入れる法」にしても、まず圧倒的に高い地頭(じあたま)を持った子を産んでおかなくてはなりませんし、その子がきちんと勉強できる学習環境もつくっておかなければなりません。何よりも早いうちから学習習慣をつけておく必要がありますし、長じては適切な予備校や家庭教師、通信教育等も考えなくてはいけません。
 学習者としてはすなおな性格でなくては吸収すべきことも吸収できませんし、「良い意味で恥知らず」でないと誰かにものを訊いたり、覚えたばかりの知識(例えば英語)を使ってみたりすることもできません。

kite-cafe.hatenablog.com 他にも常に前向きな性格だとか、計画性だとか、緻密さだとか大胆さだとか、たくさんの要素があって初めて「東大に入る」という目標が達成されます。
 その中には絶対的な条件(「地頭がいい」といったこと)もあれば多少ゆるやかに考えていいものもあります。全部そろわなくてもいいのですが、かなりの項目が必要となります。
 ですからその一部を取り出して「これが東大に入る方法だ」と提示するのは誤りなのです。
(特に本質的な問題、「頭の良い子を産んでおきなさい」と言う人を、私は自分以外に知りません。

【大切なのは何を語ったのかではなく、何を行ったか】

 東大、東大と言いすぎました。世の中のほとんどの人には関係ない話で、まじめに追究しようという人の少ない主題なので扱いやすいと思っただけです。

 もっと身近な話、「良い子を育てたい」、「他人に迷惑をかけない子になってほしい」「自由に生き生きと過ごせ、誰とでも仲良くできる子に育ってほしい」といった場合でも、情報の取扱いには気を付けましょうというのが話の本筋です。なぜならうまく行っている子育ての、うまく行っている理由を語り手(親)本人が正しく理解しているとは限らないからです。むしろよく分かっていない場合が多い。

 例えば、
「子どもを叱ってはいけません。その子がどんなに小さくてもきちんと言葉で説明し、納得させることが必要です」
とか言っているお母さん。その人は自分が言い聞かせている時、どんなに恐ろしい表情で話しかけているのか理解していません。「恐ろしい表情」というのはいつもにこやかなお母さんが、とんでもなく真剣な顔になるだけでいいのです。

kite-cafe.hatenablog.com「『親はなくても子は育つ』と言うでしょ。ごく自然に、親としてやってあげたいと思うことをやっていれば『親の背中を見て子は育つ』。普通の子は育ってくるのです」
と言っているそのお母さんが、家での様子をつぶさに見れば実に細やかな子育てを常に行っているといったこともいくらでもあります。
 うそを言っているのではありません。普通の人には細やかで大変な子育てを、平然と“ごく自然に”できてしまう人がいるのです。

 躾の行き届いた屈託のない子どもを見た時、
「どうしたらあんないい子が育つんですか?」
と思わず聞きたくなりますが、
「◯◯教育法を実践しているから」とか「『叱らない子育て』をしているから」とかいったふうにに具体的方法が語られる場合もあれば、逆に「何もしていません。ほったらかしですよ」とか「おじいちゃん、おばあちゃんが育ててくれたんです」とかいった手抜き保育が語られることもあります。しかしどちらにしてもどんな場合も単純に信じてはいけないのです。

 ごく単純に、「最初から育てやすい、素直な子が生まれてきた」という場合もあれば、本人が自覚しない(したがって語ることのない)さまざまな仕掛けや仕組みのある場合もあります。
 大切なのはその人が何を語ったのかではなく、何を行ったかです。その意味で、現在進行形で語られる子育てブログのような体験談から学べることも少なくありません。行間をよむしかありません。