カイト・カフェ

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「この国で生きていくための技能」~ちょっと憂鬱な正月に考えたこと①

 能登半島地震羽田空港地上衝突事故から1年、
 わが家でも家族がそろわない少し憂鬱な正月、
 考えてみたらこの国の民は、
 生れたときから、生き方に厳しい制限がかかっていた。
という話。(写真:フォトAC)

【少し憂鬱な正月】

 昨年の正月は長女の家族4人と長男夫婦、96歳だった私の母と私たち夫婦、計9名の賑やかな始まりだったのが、今年は子どもたちがそれぞれの配偶者の家で過ごす順回りなので、母と私たちだけ、たった三人の静かな元旦となりました。
 しかも母は昨年の6月末から入所している老人ホームの生活にすっかり慣れ、車椅子を使って無理をしない生活を送っているため、足腰がずいぶん弱って寝室と居間との行き来も大変になっています。転倒させてはいけないので、私たちもほんとうに大変でした。来年の年末年始は帰宅させることもできないのかもしれないと、少し暗い気分になりました。もうとてもではありませんが家で支えられる状況になく、施設に入れるのは選択の余地のない話だったはずですが、やはり捨ててきたような後ろめたさがあります。
 
 暗いと言えばテレビ番組も、正月だというのに例年の浮かれ切った感じがなく、どこかしっとりとしたものがありました。何と言っても元日は能登半島地震から1周年、2日は日航機・海上保安庁機による「羽田空港地上衝突事故」から1周年にあたり、番組の中でも振り返る場面がいくつもあったからです。
 特に能登半島は9月の豪雨でさらに痛めつけられ、ほんとうに気の毒な1年でした。私はかなり信心深い人間ですが、それでも特定の宗教宗派に属さないのは、こうした理不尽に対する納得のできる説明を、きちんとしてくれる神様に会ったことがないからです。
 なぜ能登の人たちだけが繰り返しこうした災害に遭わなくてはならなかったのか、そこに神の摂理はあったのか――。

【自然災害頻発国の民】

 言うまでもなく日本は自然災害の頻発国です。地震があり火山爆発があり、台風が来てがけ崩れがあり、水害があって津波もあります。米を主食とする民族ですから水辺に住まないわけには行かず、台風や洪水で田を何度流されても、同じ場所に戻って生活をやり直すしかありません。
 同じことは海辺の民についても言えて、動物性たんぱく質を魚介にから簡単に手に入れる幸せと引き換えに、日本人は台風にも高潮にも津波にも晒されて、多くの命を失っても繰り返し海岸に戻らなくてはならない宿命を背負ってきました。
 
 今は昔と違って農林水産業以外に生活の重心が移ってしまい、そのぶん土地に縛られなくなっています。ですから能登の人たちの多くも地元を離れ、新しい生業につく可能性があります。おそらくかなりの数がそういった選択をするのでしょう。しかし残る人もいる。
 彼らは再び家を建て、田畑を直し、船を買い入れて仲間の関係を再構築し、規模は小さくなるかもしれませんが、同じ場所に再び同じような町をつくり暮らしていくに違いありません。先人たちが二千年以上に渡って続けて来た生活を、現代の能登の人たちも繰り返していくわけです。
 そうした彼らに必要な能力とは何か。

【この国で生きていくために必要な技能】

 災害時およびそこからの復興に際して、英語ができることは全員に求められる最優先の能力ではありません。コンピュータ・プログラミングが書けることでも因数分解ができることでもなく、ましてや化学式が書けることでもないでしょう。
 災害に際しては、慌てないこと、うろたえないこと、我慢できること。助け合えること、辛抱強く諦めないこと、専門的な知識のある人に従うこと。並ぶこと、順番を守ること、命を守るための最低限の知識を持っていること、そして多少の筋力—―。
 復興に際しては、協働できること、役割を分担できること、責任をもってその役割を果たせること。周囲の人々に気を配れること、自分のことだけでなく全体を優先できること、情報を集め共有できること。高温多湿な時期は特に衛生に気を配り、清潔を保つこと、等々。

 そうした知識・技能は一朝一夕に身につくものではなく、知って、学んで、繰り返し練習しなくてはならないものです。とても難しく時間のかかる学習ですが、わが国の場合はすでに制度として整っています。学級当番や児童生徒会、学校行事の随所で試される係活動、マラソン大会など筋力と忍耐力をつける活動、音楽会などの協調と癒しの活動・・・。
 昨年1月2日の羽田の事故は、人は学んで訓練しておけば、相当な災害でも適切な行動がとれる、切り抜けることができると教えるものでした。
(この稿、続く)