カイト・カフェ

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「オバタリアン的発想の転換」~しかしそれが必ずしも正しいとは限らない

 今朝、たまたまA市内(隣町)を走っていたら、町のあちらこちらでラジオ体操をしている様子を見かけました、朝7時に!
 もちろんラジオではなく、テープかCDを使っての体操です。

 朝の30分がいかに大切かということも分からないではありませんが、6時半のラジオ体操を7時のテープ体操にしてしまおうと思いついて実行した最初の人はだれなのでしょう。ある意味、非常に敬服します。

 6時半にラジオ体操をするというのは、夏の暑い時期は少しでも早い時間から動き出さなければ昼は勉強などとてもできないとか、巡回体操ですので放送をきくことによってあちこちの土地を思い浮かべることができるとか、あるいは全国で何百万もの人が一斉に同じ動きをする一体感だとか、さまざまな理由があってのことです。もちろんそういった理由はよく考えなければ思いつかないもので、実際にはなんとなく昔ながらの6時半に価値あることだと思い込んでいるだけのことです。しかしそうした思い込みには意味がある場合が少なくありません。

 実は学校の中には、そういった「思い込みでやっていて、よく考えると実はやっぱりそれなりに深い意味のあること」が、たくさんあります。小学校で並んで教室を移動すること、無言で清掃すること、靴を揃えること、授業の最初と最後に挨拶すること、教員同士が「先生」と呼び合うこと、授業が45分か50分であること、義務教育が6歳から12歳までと13歳から15歳までの二つに分けられていることなど、全部そうです。

 昔「オバタリアン」というマンガがあって、現実世界にもマンガそっくりな女性の一群がいました。この人たちの最大の特徴は「ユニークな発想」と「行動力」です。誰も思いつかないことを考えついて、すぐに実行してしまいます。しかしその「誰も考えつかなかった」事項の中には、私たちが無意識のうちに、禁じ手として封印してしまったものが山ほどあるのです。

 もちろん中には、まったく意味のない、あるいは意味のなくなった禁じ手というものありますから見直したほうがよい場合もないわけではありません。しかしオバタリアン的な発想で押し切られる前に、一度立ち止まって、本当に意味がないのか、じっくり考えて見ることはぜひとも必要です。

 何しろ近代教育だけでも120年も歴史を持つ世界です。今まで長らえてきたものを簡単に直すと、後悔する場合も少なくないのです。