オバタリアンと宰相不幸社会

 かつて「オバタリアン」という言葉が一世を風靡したことがあります。元は堀田かつひこが連載していた4コマ漫画(1988―1998)なのですが、言葉は原作を越えて広がりました。

 オバタリアンは相手次第で知ったかぶりと知らんぷりを交互に連発する‥。オバタリアンはどんな先生であれ先生という人種には必ず擦り寄る‥。オバタリアンはいつも不利になると市民の権利を乱用する‥。オバタリアンは夜中に洗濯機をまわす‥。オバタリアンは3人でタクシーに乗るときも一人が助手席に乗って後ろを向いて喋る‥。オバタリアンはどんな粗品でもすぐに手を出したがる‥。

 オバタリアンというのは当時の醜く厚かましいい中年女性のカリカチュアであり、堀田かつひこに提示されると「ああ、うんうん、言われてみると確かにそういう人、いる、いる」と言いたくなるような存在でした。堀田は世のありふれた風景の中からこうした女性を紡ぎだしてきたのです。私たちの周りにたくさんいたのに、私たちがついぞ気づかなかった人たちです。

 では1990年代に現れたこのオバタリアンたちは、何が今までとは違っていたのか。

――これについては非常にはっきりした事実があります。

 その第一は、たぐい稀なき行動力です。彼女たちは思いついたこと(特に自分にとって都合のよいこと、得になること)は瞬間的にためらわず行うことができます。バーゲンで他人が手にしているものを横取りすることなどへっちゃらです。

 第2の特徴は、オバタリアンがやって初めて、それが私たち日本人の暗黙の了解であったことが明らかになるようなことを、山ほどやらかすということです。

 例えば、ジャンケンをしてこちらが勝ったら相手は必ず引いてくれるというのは、考えてみれば極めて日本的なやり口です。世界には「ジャンケンで、負けたところからが勝負だ」と思っているような人はたくさんいます。しかしオバタリアンが出てくるまでは、私たちはそのことに気づきませんでした。

 オバタリアンはそうした私たちの迂闊さをピンポイントで明らかにします。「ああ、恥知らずになればそんなこともできるんだ」という新鮮な驚きです。

 三番目は、オバタリアンは真に民主主義の申し子だということです。彼女たちは権利を振り回すことに、何のためらいもありません。

「たぐい稀なき行動力」

「全く意識できないほど当たり前になっている常識を、軽く覆すことのできるユニークさ」

「民主主義の申し子―自分の権利しか目に入らない」

 私が菅直人という人を見ていて急にオバタリアンを思い出したのは、そうした共通性によるものです。

 それにしてもああいう人が国のトップにいることは、教育上、非常に悲しい状況です。いくらもしないうちに世間智に長けた児童生徒はこう言うに違いないからです。

「だって、菅さんだって同じことやってるじゃん」