私たちは生物学的には「ヒト」です。社会的には「人間」と定義されます。「人」と「人」との「間」に存在する者、という意味です。
話は変わるみたいですがここ数年、教育評論の世界で「子どもたちは良い子を強制され、精いっぱい良い子を演じている」という言い方がが繰り返しなされています。私は、子どもは「精いっぱい良い子を演じている」うちにやがて身につき、本物の「良い子」になると信じますが、評論家たちは別の方向でものを考えます。しかしこれについては改めてお話しましょう。今日考えたいのはそれと正反対のこと。つまり「子どもたちは悪い子を強制され、精いっぱい悪い子を演じている」、その可能性についてです。
私たちは自分独自の考えや感情にしたがって存在し生きていると考えがちですが、実はそうではありません。なんといっても「人間(人と人の間に存在する者)」ですから、他人の思惑や他人の期待、正確に言えば「人は自分のことをこう思い、そんなふうに期待しているだろう」という思いに沿って生かされています。例えば教員としての私は教員として、父親としての私は父親として、周囲の思惑に応えようと生きています。そう意識していなくても、そのように生きる習性を持っています。
同じように、非行少年たちも「学校から何を言われても、頑として髪の色を戻さないすごいヤツ」とか、「決然と先公に反抗し、オレたちの代弁をしてくれる頼もしいヤツ」とか、あるいは「警察さえも恐れないツワモノ」とかいった他人の思惑に支配されます。本当は、周りの連中はそこまで考えているわけではないのですが、本人は動きが取れません。
「一人ひとりはいい子なのに、集団になると……」といった言われ方をするときは、たいていそうなのです。本当はそんなことはしたくないのに、互いに「そう思われているだろう自分」に縛られて動きが取れなくなっているのです。
「生徒を(悪い子として)デビューさせるな」というのは、私が中学校の教員だったころ、よく合言葉にしていたものです。一度「悪い子」として世間に立ってしまった子は、内心でいくら望んでも、その立場から降りることは容易ではないからです。