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「『現代の家柄』再考」~人柄と同じ意味での”家柄”の話

 事情があって過去記事を調べていたら、同じ題名の記事を2007年から三年連続で載せているのです。「現代の家柄」(2007/6/19、2008/3/10、2009/12/2)、全く気付きませんでした。

 幸い話題の中心に据えた事例はそれぞれ別で、その都度、新しい気持ちで書いたのは明らかですが、それにしても同じ題名で書いたことに全く気付いていないというのも考えものだな、と思ったりもしました。おまけに、「娘にはいつも『家柄の良いところにお嫁に行きなさい』と言っています」という文章は2回出てきますから、よほどボケていたとも言えますし、よほどこの話題が気に入っていたとも取れます。

 私の言う「現代の家柄」というのは、家老の末裔だとか華族の出だとかいった話ではなく、「人柄」と同じ意味での「家柄」です。その家の家風、家族に共通な感じ方・考え方、身の処し方、そういったものの総体です。それは祖先から綿々と受け継がれ、婚姻のたびに合成され、新たな形となって家族の中にあらわれるもので、家族の個性であるとともに他人に対してひとつのまとまった印象として表現されるものです。

 幸い娘はステキな家柄の男性と結婚することができました。正確に言えば父親として安心できる家柄の青年のところに嫁ぐことができました。しかしそれはもしかしたら最初から分かっていたことで、特に心配する必要はなかったのかもしれません。

 子どもも二十歳を過ぎれば人間的にかなり固まってきます。人格にも生き方にも、そして進むべき将来にも、一定の幅ができてしまうということです。
 それは「最良の場合もその程度ににしかならない」とともに「最悪の場合でもこれよりは下らない」といった幅です。
 もちろん遠い将来まで考えるとその幅は同じように狭いものではなく、次第に広がる放射状の幅ですが、それでも限界はある。そして交際する友人も恋人も、よほどトリッキーな事故でもない限り、その幅の中にしかいない、そう考えられるからです。それは私の二人の子を見ているうちに気づきました。とにかく小さなころから友だちが偏っているのです。

 子どもたちの特に親しい友人の中には必ず教員の子がいる。公務員の子も多い。
 私などは自営業――特に個人商店といった家族が常に一緒にいるような家庭にとても興味があるのですが、そういう家庭の子とは結局、仲良くなりきれない。そういう家庭の情報はまったく入ってこないのです。良い悪いの問題ではなく、基本的な家庭の文化に違いがあるのでしょう。

 がり勉の友だちはがり勉にしか務まらない、夜遊びの相手は遊び人にしか務まらない、それが鉄則です。
 時折、
「ウチの子も、もっと友だちを選ばなくちゃいけないと思うのです」
と言ったりするお母さんがいますが、それはムリです。

「お子さんが、お母さんの望むような子どもを友人に選ぶためには、お子さんを自身をそうした人間に育てておくしかないのです。そのためにもまず、お宅の“家柄”を、それにふさわしいものに整えましょう」
(もちろん口に出して言ったりはしませんが)