ハガキの値段が一気に上がり、
年賀状という習慣への迷いも生まれる。
だが、いろいろ考えたら、
やっぱりやめるのは難しいと思った
という話。(写真:フォトAC)
【年賀状を如何にせん】
ハガキの値段が63円から85円に一気に35%も値上がりして、先日の飲み会でも「年賀状どうする?」が話題になりました。
私の場合は最盛期の半分以下に減っているとは言え昨年が120枚。今年同じ枚数を出すとすると1万と200円。なんと昨年より2640円も高くなっているのです。同じ状況で迷う人が出て来るのも無理ありません。
しかしこれを機に年賀状をやめるというのも勇気のいることです。なぜ勇気がいるのかというと――そう考えたらいくつもの理由が浮かんできました。ひとつには年賀状じまいで傷つく人がいるからです。具体的に言えば私のような人間です。
【「私は選別から漏れた」感】
おそらく年齢的なものもあってここ数年、「年賀状じまい」の挨拶状がいくつか入るようになっています。もちろん中にはショートメールでひとこと、
「ご無沙汰しています。元気ですか。今年からお互いの年賀状のやりとりは、やらないということで、よろしくお願いします」
と送って寄こし、私を激怒させた従兄のような例もあります(そっちが辞めるはかまわないが、オレが辞めることまで勝手に決めるな!)が、精一杯気を遣って書かれた文面であっても傷つくことがあります。それは「私は選別から漏れた」感です。
年賀状をやめたからと言ってその人がすべての人間関係を断って山に籠るわけではありません。おそらくたいていの人は家族関係・親戚関係、友人関係や師弟関係の一部を解消せず、それまでと変わらず暮らしていると思われます。
さらに私以下の世代だとネットで繋がる関係、LINE友だち、フェイスブックで繋がる人々、インスタで交流のある人、そうした人間関係を年賀状とは別に温存している人たちも少なくありません。その中で年賀状に関わる人間関係だけを解消した、年賀状でしか繋がっていない私が「切られた」可能性があるのです。その人にとって私が「不必要な人間」のひとりだと、宣言されたも同じなのです。一年に一遍しか思い出さない関係でも、私は繋がっていたいのに向こうから切られた、それはなかなかしんどいことです。
いや、待て。疑心はさらに暗鬼を呼びます。
「もしかしたら“今後もつき合いたい人用の年賀状”と“切り捨ててもかまわない人用の年賀状”の二種類があって、私には後者が送られたのかもしれない」
そう考えると一層辛くなります。
私のような前向きな考え方をする人間ですらそんなひねくれた考え方をするのですから(ちょっと言いすぎました)、普通の人はなお傷ついて考え込むかもしれません。
――そんなふうに考えると、私のように疑り深い人間がいて、その人があれこれ考えて傷つくようなら年賀状、出しておいた方がいいかな? という思いになるのです。
【「生きています」と知っていてもらいたい人がいる】
私自身の小学校の恩師、初めてサラリーマン生活を始めたときの先輩、教員になったばかりのころ助けていただいた先輩・同僚。もっとも重要な時に面倒をみてくださった校長先生――総じて「今の私が幸せにあるのはあなたのおかげです」「あなたのおかげで今、こうしたよい状況にあります」と知っていてもらいたい人、報告せずにはいられない人、そういう人たちがいます。相手にとっては迷惑かもしれませんが、「私は知っていただきたい」「感謝の気持ちを伝えずにはいられない」、そういう人たちです。
ですから返事は必要ありませんし、相手が負担に感じるようならそれはそれで辛い。辛いけれど一年に一遍のことじゃないですか、元日にそうしたワガママな弟子・後輩・部下のために年賀状に目を通すことくらいは、功徳というものでしょう。そんな気持ちで届けたい人たちです。
【年に一遍の挨拶が目安】
「年賀状のやり取りもない人」
という言い方があります。例えば新聞の「おくやみ欄」に名前を発見したときなど、その葬儀に出席するか否かの目安として使ったりします。
「まあ、年賀状のやり取りもなくなっている人だから、出席しなくてもいいかな?」
年賀状そのものをやめてしまうと、その基準が揺らいでしまいます。「あの人の時は行ったがこの人の場合は行かない」の目安がなくなってしまうわけです。
一年に一遍のこととはいえ、年賀状を通して私のことを気にかけてくれる人、そのひと本人はもちろんのこと、ご家族に不幸があれば最低でも弔意くらい表すべきでしょう。けれど一年に一遍のやり取りもなくなった相手なら、特に何もすることはありません。
年賀状をやめるということは知人を丸ごと後者のグループに入れてしまうということです。それは勇気がいる。
【たまたま今は会えないが機会があればまた会いたい人がいる】
ただ何となく関係を繋いでおきたい、という人たちがいます。
大学時代の友人で、50年近く年賀状のやり取りだけを続けてきた人がひとりだけいます。4年ほど前にその彼が突然「同窓会をやろう」と言い出し、コロナ禍が挟まって二回目はリモートとなりましたが、間を置いて今年、3回目の同窓会を開くことができました。
その前例があったので、今年は私が初任校で仲の良かった先生たちに声をかけて、これも40数年ぶりの飲み会ができました。いずれも年賀状という細い糸を手繰り寄せてのことです。
――と話しているうちに思い出したのですが、現在の妻とは独身時代、知り合って間もなく妻の転勤で別れ別れになってしまい、もう会えないと思っていたところに年賀状が舞い込んで本格的な付き合いが始まり結婚に至りました。それで幸せになったかどうかは別としても、年賀状という習慣があったので出されたハガキで、そうでなければそのまま音信不通になっていたかもしれません。
【結局、年賀状が好きだ】
最後に思いついたのが「結局、私は年賀状が嫌いじゃない」という理由です。
- 文章を考えるのは好きだ。
- レイアウトなどを考えるのは嫌いじゃない。
- 年に一遍、その人のことを思い浮かべるのは悪いことじゃないと思っている。
- 日本の伝統を守っている感じがいい。
【若い人たちはどうしていくのか】
年賀状という習慣自体は、私たちの世代を最後に今後も廃っていくものだと思います。それはいい。いまの若い人たちはメールの一斉送信やグループLINEのメッセージで済ませてしまう、それも悪いことではないと思います。しかしメール・アドレスを知らなかったりLINEアカウントが分からなかったりする大切な人の場合はどうするのでしょう?
もしかしたら「直接会わなくなった人間関係はそれきりで終わる」、そういう時代になっているのでしょうか?――とボヤいたら妻は、
「そんなこと、若い人たちがきっと何とかするはずよ」
確かにそうかもしれません。