カイト・カフェ

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「半世紀前の塾産業、そこに流れてきた人々」~人生の答え合わせ③

 同窓会の翌日、私は会社員時代の先輩と同僚に会った。
 これも40年ぶりの会合だ。
 互いにずいぶん年を取った。
 それなのに私は、あの時代の清算をしていないのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【人生の答え合わせ第2幕】

 大学時代のゼミの同窓会の翌日、私はかねてから約束をしてあった別のふたりと昼食会をしていました。大学を卒業後30歳になるまでの間しばらく勤めていた学習塾の元同僚と先輩です。
 二人ともずいぶん年を取ってしまい、元同僚の方は禿げ上がって残った髪も白く、先輩の方は黒く薄い髪こそ残っているものの、杖をついていて歩くのにもままならない様子がありました。一日おきに透析に通っていると聞いています。私はこの人が死んでしまったのではないかと狼狽えたことが2度ほどあって、その顛末はこのブログにも書きました(2021-01-14「ボヘミアンK氏を探して」~年賀状が呼び覚ます記憶と人間模様③)。幸い二度とも私の早とちりで、おかげで今回、40年ぶりくらいに会うことができたのですが――。
 
 すべき連絡を怠っているうちに仲間に死なれてしまったようだと狼狽えた経験はほかにもあって、そのうちのひとりは私が陰で「大黒さん」と呼ぶ、同じ学習塾時代の年下の同僚です。その話も昨年ここに書きました(2023-01-16「来るはずの年賀状が来なくて怯える」~大黒さんは何処(いずこ)に①)。
 大黒さんは現在四国に在住で、仕事の関係もあって今回は会うことができませんでした。
 
 会うことのできた髪の白い元同僚は「~大黒さんは何処に」の中で「B太郎」という名前で登場する本名栄太郎氏で、長いこと年賀状だけの付き合いだけでいたのを、昨年、「~大黒さんは何処に」事件の後、生存確認も兼ねて大黒さんと三人でオンライン飲み会をやろうという話になって1度だけやったことがああります。
 とりあえずLINEでつながることのできる3人でやっておいて、次はK氏も交えて4人でやることにしよう――そう話してから早1年が経ってしまいました。K氏のスマホにLINEやZoomを組み込むことが、手紙や音声通話だけだと驚くほど難しかったのです。結局、設定できない。
 40年前は誰よりも早くパーソナル・コンピュータ(シャープMZ―2000)を購入してあれこれやっていたK氏が、今やスマホも通話機能しか使わない人になってしまいました。それも40年間の重みです。

【1980年前後の若者の社会】

 思えば私たちが知り合った1980年前後というのは、さまざまな意味で暗く、いい加減で、先行きの見えない時代でした。1978年秋から始まった第二次オイルショックのために物価は高騰するのに経済は冷え、就職は難しくなる――。
 ほんの数年前まで高度経済成長期が続いていて、ほとんどの人々が「良い高校から良い大学に進み、良い企業に入れば必ず豊かになれる」と信じ、実際に自分の親以上の学歴を持てば確実に親以上の生活ができるはずだったのに、とつぜん高学歴をもっても豊かになれない時代になってしまったのです。
 
 同世代の多くは必死に食らいついて就職先を探し、手に入れ、まなじりを決して社会に立ち向かっていきましたが、中には歴史の大きな転換にうまく適合できず、置いてけ堀を食らってドロップアウトする人たちもいました。彼らはしばしば司法浪人だったり芸術家・作家志望だったり、あるいは役者志望だったりしました。しかし必ずしも誰もがその世界で必死に頑張っていたわけではありません。何かを始めようとして普通の軌道に乗らなかった人たちが、ずっと何にも乗れないまま、時を送っている例も少なくなかったのです。そもそもドロップアウト自体が、さほど能動的・主体的なものではなかったからなのかもしれません。

【学習塾に流れてきた人々】

 当時の塾産業にはそんな人間が掃いて捨てるほどいました。
 ちょうど第二次ベビーブームの子たちが学校に上がり始める時代で、学習塾は雨後の筍のように乱立しました。その多くが粗製乱造でいい加減なものでしたが、そのいい加減な枠の中にドロップアウトした若者たちが多く入り込んできたのです。
 時給はとんでもなく高いのに就労時間は長くても5時間程度(16時~21時)。ですから日給計算にすると普通の生活を送るのはやっとです。しかし司法試験の勉強をするとか作品作りをするとか、あるいは日中に稽古の時間を持ちたいとなると、これほど都合のよいアルバイトはありません。教育を本気で行おうという人は稀で、多くは余技のようにしか考えていませんでした。それでも学習指導は面白く、子どもといることを苦にしない、そういう人たちが最終的には残っていたのかもしれません。

 私がここで名前を挙げたK氏は司法浪人でしたしB太郎氏は劇団員でした。大黒さんは映像づくりに夢中で、私も事情があって意図的に普通の就職を棄ててその場にいました。
 塾産業はそののち淘汰の時代を迎え、少子化が進むにしたがって良質の学習塾でさえ倒産する時代を迎えました。それでもK氏たちは学習塾で生きて来たのですから、それなりの力があったのでしょう。

【私の場合――】

 私は――田舎に戻る必要があって当時の年齢制限ギリギリの30歳で教員採用試験を受け、受かったのを機に田舎の公立学校の教員になりました。採用されたあとでとんでもない苦労をしましたが、終わってみればいい経験です。
 学習塾の講師として過ごしたあの6年間については見直したことがありません。さまざまなことを諦めるために必要な時間だったことは確かですが、都会で何ごとかを成すという意味では生産的でも建設的でもない日々を、どう過ごしたのかよく覚えていないのです。見直さないのはこれだけの月日が経っても、まだ思い出したくないことがあるためかもしれません。
 
 ところでK氏のスマホの設定、私はiphoneなのにK氏とB太郎氏の2台はandroidなので操作のしかたがイマイチ分からない。LINEはともかくZoomは私もド素人なので手も足も出ず、しかたがないのでLINEのビデオ通話で四国の大黒さんを呼び出し、オンラインでご指導を受けながらの設定。けっこうたいへんでした。
 その間も続くK氏とB太郎氏の思い出話にときどき首を突っ込みながら行う作業は遅々として進まず、しかし最終的には何とかなったみたいです。今回は十分に話もできませんでしたが、次はオンライン飲み会で、過去の私についてじっくり教えてもらうことにいたしましょう。
(この稿、続く)