カイト・カフェ

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「人とつるまない”しらけ世代”だが、最後は会って話をしよう」~人生の答え合わせ①

 大学のゼミ仲間との同窓会が、
 コロナ禍のオンラインも含めて、ここ数年続いている。
 本来はそれほど精神的紐帯の強い世代でもないが、
 人生の最後、やはり会って改めて話そう――
という話。(写真:SuperT)

【半世紀近くを経て始まった同窓会】

 昨日は井の頭公園に行った話をしましたが、行ったのは公園の近くのイタリアン・レストランで大学時代のゼミ仲間と飲む計画があったからです。卒業以来長く続いた関係というのではありません。40年近く顔も見ない日々が続き、2019年の春、年賀状だけの関係からひとりが思いついて声をかけたところ、8人もの仲間が集まって関係が復活したのです。それが第一回のゼミ同窓会でした。

 ところが翌年はコロナ禍の真っ最中。2021年、2022年とオンラインで少人数の飲み会をし、昨年は中途半端なコロナ禍明けでうまく調整がつかなかったのを、今年、4年ぶりに開催できたのです。
 5年前と8人から二人が体調不良で直前キャンセル、ひとりが新たに加わって7人の会合となりました。

【曲折を経て元に戻る】

 参加した7名の内訳を言うと主夫業や趣味を中心に過ごしている者が私を含めて3名、知り合いの会社で軽業務を手伝いながら日々を過ごしている者が1名、残りの3名が今も現役・フルタイムでがんがん働いています。生え抜きで中堅企業の社長となった者がひとり、コンサルタントとして企業回りをしている者がひとり、公立を経て現在は10年目の私立学校教諭を続けている者がひとり。

 これが40代50代だったら(なにしろそこそこの企業の社長もいるわけですから)何となく差をつけられたような、落ち着かない人も出てくるかと思うのですが、定年を過ぎると気にならないもので、人は人、我は我でいられます。私だって今は呑気に「主夫と趣味」などと言っていられますが、20年前に今の状況だったら外部からの収入のないことに大いに傷ついたかもしれません。
 70歳ちかくになっても社長を続けて高収入を得る人生も、第一線の企業人にアドバイスできる生き方も、あるいはエネルギーのギラギラと光り輝くような高校生と丁々発止のやり取りをする人生も、それぞれカッコウよくすばらしいものです。しかしさりとて日常を杓子定規に着々と送る、私のような人生が劣ったものであるはずもありません。
 半世紀前、まったくの平等だった大学生は、曲折を経て、いままた平等な世界に舞い戻ってきたのです。

しらけ世代

 私たちは、いわゆる「しらけ世代」に属する人間です。
 すぐ上にいたのが「団塊の世代」「全共闘世代」と言われる人々で、ひじょうに精力的で政治的かつ闘争的だったのに対し、私たちは敗北した学生運動の廃墟の中から生まれてきたため、何事に対しても冷笑的で無関心でした。あれほどの血と汗と涙を流した先輩たちが何ひとつ達成できなかったのを見て、政治的であることをすっかり諦め、理想や未来のためでなく自分の足元だけを見て生きるようになります。
 すでに高度成長期は終わり、第一次オイルショックから第二次オイルショックにかけての時期に大学生としての生活を送ることになった私たちは、どうやら未来は想像以上に暗いものになるらしいと思い始めていました。
 
 四畳半フォークと揶揄された泥臭い下町ソングが、互いを見つめ合う以外に何もしない男女を描いた「神田川」や、都会の若者の自殺問題よりも今日の雨や傘がないことの方が大問題だと大げさに言い放った「傘がない」を生み出したかと思ったら、一方で女性は「アンノン族」と呼ばれる新しい時代の女性像を創造し、実際にはごく少数の占有物でしかありませんでしたが中央フリーウェイを車で駆け抜けてスキー場に女の子を連れて行けるような経済力と知識・技能を持った若者こそ、自分たちのあるべき姿だと理想像を創り上げたのも私たちでした。
「大学生なのにマンガを読む」と非難された最初の世代ですが、言ってみればそんな私たちが今日のサブカルチャー興隆の下地をつくったのです。冷笑に耐えてよく読み続けたものです。

 団塊の世代は凄まじいエネルギーで学生運動を主導し、卒業すると今度はその爆発的な能力でバブル経済を動かした――それに比べると私たちはまったく情けない世代でしたが、だからこそ成し得たものもあったのです。

【やはり最後は会って話そう】

 あれから40数余年、人生に熱意のある方ではなく、精神的な紐帯も弱く、肩を組んだり腕を組んだりして時代を突破しようとすることもなく、ただ何となく生きてきた私たちが、それでも自分の生き方の答え合わせをしようとするとき、実際に顔を合わせ、声を掛け合い、自分やお互いの言動を確認しあおうとするのは、やはり当然のことなのでしょう。

 会えば話すべき青春はやはりあったのです。