カイト・カフェ

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「『タワー・マンション』:私のつくった寓話をお読みください」~当為と存在、ロマンチズムとリアリズム①

 「こうあってほしいこと」と「こうあること」は違う。
 しかしこの二つはしばしば混同され、あるいは利用される。
 けれどそれを厳密に扱わないと、我々は、未来を誤るのだ。
 『タワー・マンション』の夫婦のように,
という話。(写真:フォトAC)

【『タワー・マンション』:私のつくった寓話をお読みください】

「あるところに一組の夫婦がいました。二人とも働き者で、昼の本業以外に夜のバイトもそれぞれ二つずつ掛け持ちし、おかげで夫婦合わせての月収は100万円にも届きそうなほどでした。
 
 彼らがそこまで必死に働くのには、実は理由があって、駅前に立つことの噂されているタワー・マンションの最上階に部屋をもち、そこで優雅な生活を送るためだったのです。まず頭金を稼ぎ、そのあとは25年か30年のローンを組む、そんな計画でした。
 やがてタワー・マンションの具体的な計画が発表されます。しかし驚いたことに、最上階の一室の価格は、なんと3億円を越えていたのです。夫は考えます。
「とても今のままでは間に合わない。収入をあと50万円増やして150万円以上稼がなくては間に合わない」
 妻は絶望しています。
「とてもじゃないけど50万円なんて増やせるわけがないじゃない。今だってギリギリでやっているのに、これで病気にでもなったら何もかも失ってしまう。それなのにさらに50万円なんて、ありえないでしょ」
 けれど夫は耳を貸しません。
「できるかできないかは問題じゃない、やるかやらないかだ。キミはいつだってそんなふうにやる前から、“あれはダメ”“これはムリ”と言って諦めてしまう。そんなことだから何も成し遂げられなんだ。50万円の上積みが必要なんだ。だから50万円の上積みする、そこに何の問題があるんだ!」
 妻はさらに抵抗します。
「もう、ウンザリ。できないことはできない。そんなの当たり前でしょ。そんなに最上階が欲しいいならあなた一人でやればいい。私はついていけない。私は降りる。この結婚生活からも、私は降りる」
 夫の方も苛立ちます。
「なんてワガママなんだ! ボク一人でできるならとっくに始めている。一人でできないから一緒にやろうと言っているんじゃないか。なぜキミはそれが分からないんだ。そんな弱気なことだからダメなんだ。やるかやらないかがすべて。できるかできないかなんて、あとから考えればいいことだ」
 夫婦の話はいつまでも噛み合わず、そのままいつ果てるともなく続きました。しかし結局、ふたりは仕事を増やすこともできず、さりとて減らすことも投げ出すこともしないで、手に入らなくなったマンションのために、延々と働き続けるのでした」

【当為と存在、ロマンチズムとリアリズム】

 この話を思いついたのは、妻の関与するある組織(といっても“闇の組織”ではなく自治的な購買組織)が、規模拡大を計るのに上層部からとんでもなく非現実的な目標が提示されて、妻たちが息絶え絶えになってきた、という話があったからです。妻は組織の一番下の実働部隊で、軍隊風に言えば小隊長のような立場にあるのです。
 まるっきり現実性のない目標に必死に抵抗すると、出てきた話が、「あなたのグループが目標を下げると、他のグループの負担が増える」という下々を分断し、対決させる論理です。そもそも全体の目標を下げるという発想はありません。寓話の夫婦に、分相応のマンションに目標を切り替えるという発想がないように。
 
「当為(とうい)」という言葉があります。意味は「実在化すべきこと」「実現すべきこと」、つまり「未だ現実でないこと」あるいは「かくあれかしということ」であって、対置される概念は「存在」(実際にかくあること)です。「こうあってほしいこと」と「かくあること」とは違う、といったことを「当為と存在は異なる」と言ったりします。

 妻の組織の上層部や、私の寓話の夫が言っていることが「当為」であり、私の妻や寓話の妻の語っていることが「存在」、つまり現実なのです。ロマンチズムとリアリズムの違いとも言えます。噛み合わないときはまったく噛み合いません。
(この稿、続く)