カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「ひとは練習しなければ歩くこともできない」~文化的グローバル化の話③

 大人である私たちがいま自然にやっていること、
 それは本能でなければすべて学んだことだ。
 あがめるべき教会もモスクも党委員会も持たない日本人は、
 どこで人間になる教育を受けたのだろう、
という話。(写真:フォトAC)

【本能でなければ、私たちにできることは学んだことだけだ】

 私たちができることすべては、先天的なものか後天的な(学んだ)ものに分類できます。後者の「学び」にも二種類あって、無意識・無計画に行うものもあれば、意図的・計画的なものもあります。
 「麻中之蓬(まちゅうのよもぎ)」という言葉があって、「くねくねと曲がりやすい蓬も、屹立する麻の中で育てばまっすぐに伸びる、それと同じようにしっかりした人々の中で育てば人も自然ときちんと育つものだ」といったものが前者であって、学校のようにカリキュラムがしっかりと立てられている場で行われる学びが後者です。別な言い方をすれば「環境」と「教育」です。
 
 環境は意図しない学習の場ですから誤った学びをすることもあります。悪いことをして叱られる友だちを見たら「悪いことはしてはいけない」と学んでほしいものですが、中には「どうしてバレたんだろう? どうやったら見つからずに済んだのだろう」と真剣に考えている子もいるのです。こうした間違った学びを一般に「誤学習」と言います。期待される学びと異なった学習をしてしまうことです。

【日本の子どもはどこで学ぶか】

 さて、昨日は昭和の先輩たちが学校から刃物をなくすためにどんな苦労をして来たのか、花いっぱい運動や街の美化運動を通してどんな街をつくろうとしてきたかについて考えました。しかしそれらがうまく行った背景には、そうした社会運動に対して、素直に、誠実に従おうとした日本人の存在がなくてはなりません。彼らはその“正しいこと”を受け入れ、自然にできるようになるまで、繰り返し、繰り返し、一生懸命学んだり練習したりしたのです。彼らはどこでそうした学びをしたのでそう? 家庭ですか? 社会教育によってですか?

 もちろん家庭によき保護者がいて地域にも立派な先達がいて、そうした人々が手本となり、子どもたちがそれを見ながら“ああなりたい”と望んで真似してきた、そんな場合もありました。しかしそれは無計画・無意識的な学習であって、天啓に恵まれた子供だけが成長できる行き当たりばったりの教育です。“親ガチャ”や“環境ガチャ”だけだと格差は広がる一方で国民は育ちません。それを意図的・計画的に、そして系統的に全体的にやってきたのは、日本の場合は学校なのです。
 他の国では、教会やモスク、あるいは党委員会といったところが担っていた人間性を育てる仕事を、日本で背負えたのは学校だけであり、寺院も神社もその任にあたることはできませんでした。だから日本の学校は忙しいのです。人間を育てるのですからやることが多すぎます。

【ひとは練習しなければ歩くこともできない】

 人間は、きちんと教えて訓練しないと、並ぶことも行進することもできないって知っていました? 行進、つまり集団が揃って前へ向かって歩くこと、実は驚くほど難しいのです。まっすぐ前を向いて、適切な姿勢で、手と足を交互に前へ出して歩く、それだけだって難しいのに、視野の隅に前と左右の友だちを捉えながら、その人たちに合わせて位置を微調整するわけです。現代のロボットにやらせたってそう簡単なプログラムではないでしょう。

 小学校の低学年の子どもにああいった軍隊式の行進はさせたくないといって歩行訓練をしなかった学級担任を知っています。1学年1クラスの小さな学校でしたので、そのため口を挟む人がなく、だから気づかれなかったのかもしれませんが、そのクラスを4年生から担任することになった若い女の先生が私に向かって、
「先生! 私のクラスの子たち、並んで歩けません!」
 そう訴えて来た日のことを忘れません。請われて見に行くと、ほんとうにバラバラで、適切な距離をとって前の子についていくことすらできないのです。仕方ないので、目の前の友だちシャツの裾を握って歩くところから訓練をしなおしました。
 
 人間は意見を述べるときには「ハイ」と手を上げて指名されるのを待ち、当てられたら静かに立って発言する――もちろん理解するのは難しい話ではありません。しかし自然にできるようになるために何年もの修行が必要です。
 だって自分の思いついたことを、誰かに言われる前に一番に言いたいじゃないですか。もしかして先生はボクが手を上げていることに気づいていないかもしれないから、とにかく大声で、「はい、はい、はい」と連呼して注意をひきつけなくてはいけない――そんなふうに考える子はいくらでもいます。それを押しとどめる順番を待つ自制心は、やはり修行によってつけていくしかありません。
 (この稿、続く)