カイト・カフェ

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「子どもの死を受け入れる覚悟」~附属池田小学校事件から22年たった

 附属池田小学校の事件から、6月8日で22年が経った。
 今年は大きく話題になることなく、静かに通り過ぎてしまった。
 しかしこの日を忘れない人たちがいる。
 子どもを亡くして苦しむのは、家族だけではない。
 という話。(写真:フォトAC)

【池田小学校事件から22年たった】

 私のブログの毎日の閲覧数は100弱からせいぜいが150止まり、記事は4000以上ありますから実に効率の悪い話です。現職のころは毎日最低でも200を切ることはありませんでしたから寂しい限り。もっとも連日の長文で、自分でも読み直す気にならないのではだめでしょう。ひとりチマチマと頑張っていきます。さて――、

 ところが先週の木曜日(6月8日)、その弱小ブログのアクセスカウンタが突然「374」という大きな数字をたたき出してびっくりしました。こういうのはたいてい誰か有力な人が紹介してくれたとか、その日付に意味があるときです。で、調べてみたら、6月8日は附属池田小事件(2001年)と秋葉原通り魔事件(2008年)の起こった日でした。
 もう18年も続けているブログですので両事件も何度も扱っているのですが、検索されているのは特定に記事で、そのひとつは『2021-06-10「生涯、十字架を背負って生きる」~附属池田小学校事件から20年③』というものです。

kite-cafe.hatenablog.com

 池田小学校事件に関する記事など山ほどあるはずなのに、どういった検索から私のところへ来たのかと調べると、これが少しやりきれない気持ちになるのですが、最近の検索ワード・トップ7は、
 1. 池田小学校事件 逃げた教師
 2. いじめ 訴えたもの 勝ち
 3. 附属池田小事件 逃げた教師
 4. カイトカフェ
 5. 池田小学校事件 取り押さえた教師
 6. 池田小学校事件教師死亡
 7. 附属池田小事件 生き残り
となっています。
 もちろん事件のあった月だということもありますが、どういう意図でかかわりのある教師を調べているのか。「あの人は今」みたいな単なる興味からなのか、それとも改めて話題にして追及したいのか――。私自身も単純な興味から調べて書いたのですから似たようなものですが、今あらためて名前が特定され、ネットで糾弾されることのないようにと祈るばかりです。

【あの時代のあの状況では無理なかった】

 当時の附属池田小学校の教師たちに対する私の気持ちは先の記事にあるとおり、「あの時代の状況では無理がなかった」というものです。同じ状況が池田小事件以前に起こって私が当事者だったとしても、違った反応はできなかったと思います。
 これから子どもたちを殺しに行こうとする男とすれ違っても、子どもを迎えにきた保護者か、何かの用事でやってきた業者かと思ってやり過ごしてしまう、そんなことは大いにありそうですし、血の着いた包丁を持った男がいきなり教室に入り込んできて、血走った目でこちらを睨んだら、それでも逃げ出さずに済むか、逃げずにとっさに犯人と子どもの間に割って入れるかどうかというと、それも自信がありません。来ると分かっていれば訓練でなくてもできるでしょうが、いきなりだと思わぬ方向に足が動いてしまう。

 いまならわかりますが、警察に電話をする前に周囲に知らせるようにしないと、警察は一度とった電話の相手を絶対に離してくれませんから周知が大きく遅れます。大切なのはまず避難であって通報ではないというのも池田小事件の教訓ですし、こうした事件では犯罪現場所は一か所ではない可能性があり(池田小事件では4教室が事件現場だった)、犯人が複数である可能性もあります(アメリカのコロンバイン高校事件では犯人は3人だった)。
 そうしたこともすべて、附属池田小学校事件が起きて初めて私たちが学んだことで、それ以前は考えたこともなかったのです。

【子どものおおぜい亡くしたもうひとつの事件】

 学校で教師の管理下にあったにもかかわらず、たくさんの子どもを死なせてしまった事件に、東日本大震災石巻市立大川小学校があります。世間の人々の中には地震から津波到達までの40分間、教師たちが子どもを高台に避難させることもなく、ほとんど無為に過ごした無能・無責任に呆れ、嘆き、怒ったりします。しかし思い出してほしいのです。当日現場にいた教師たちは、一人を除き、残りは全員、津波に飲まれて亡くなってしまったのです。自分ですら救うことができなかったのです。仮にすべての教師が子どもたちの命を軽く見ていたと考えるにしても、自分の命までぞんざいに扱ったと仮定することはできないでしょう。
 それぞれが不安を抱えながら、しかし自ら動こうとしなかったのは、大川地区のほかの人々も動かなかったからです。地元の人々が動かないのに、子どもを動かすことはできないそれが地域に根差す小学校の宿命でした。地域の人々を置き去りにして、あるいは地域の人々を引きずって別の場所に率先避難するには、同じ市内の門脇小学校のように、最良の避難場所が目の前にある、訓練ではいつもそこに避難しているといった何か特別の事情が必要です。

 教師たちは本当に優秀で子どもたちのことを最優先に考えます。その証拠に、あの東日本大震災の際中に、学校の管理下で亡くなったり行方不明になったりした子どもは、すべての都道府県を合わせても、大川小学校の74人のほかにいないのです。
 それだけに、逆に言えば大川小学校の悲劇は特別で、徹底的に分析され、記憶と記録に留める必要がありました。しかし教師が悪いという結論は正しくありません。

【子どもの死を受け入れる覚悟】

 長く教員を続けていると時に在校生の死と出会うことがあります。私も初任の学校でひとり、2校目でもひとり、自分のクラスではありませんが事故で生徒を亡くしています。
 卒業生として送り出したのち、あるいは私自身が異動でその学校を離れてのち、亡くなった子は何人もいます。そのうちのひとり(中学生)は自殺でした。担任は飛び抜けて優秀な20代後半の男性でしたが、“子どもの自殺”という悲劇をどう受け入れてたのか――。気にはしていたのですが、ついぞ聞く機会はありませんでした。
 私自身は自分のクラスから子どもを失うことはありませんでした。しかしそれは単に運がよかっただけで、もしそういうことがあれば、きっと後悔にひどく苦しんだはずです。