「運に恵まれた学校、動かなかった地域の人々」~災害と学校③

 東日本大震災で全校無事避難を果たした学校の中には、
 かなりの「運に恵まれた学校」があった。
 しかしそれにもかかわらず、地域住民が学校の運にあやからなかった例がある。
 何が起こったのだろう?

という話。

f:id:kite-cafe:20210312071149j:plain(「気仙沼市伝承館(旧気仙沼向洋高校)」。右上に矢印で示したのが2次避難に向かった寺院《2019年9月撮影》)

【運に恵まれた学校】

「計画と運と地域――それが生死を分けた三つのキーワードです」
 昨日はそんなふうに書きました。しかしもし、その中でひとつしか得られないとしたらおそらく「運」が最良です。どんな悪条件でも「運」さえあればなんとかなります。もちろんだからといって最初から「運」だけを頼りに防災を考えることはできませんが。

 昨日、“地域の人々の助言や支援によって子どもたち全員の命を守ることができた学校として紹介した石巻市の尾勝小学校と谷川小学校も、決定的な瞬間に適切な援助を受けられたという意味では「運に恵まれた学校」です。
 そして現在は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」となっているかつての宮城県気仙沼向洋高校も、結果的に大きな運に恵まれた学校でした。
 

気仙沼向洋高校で起こったこと】

 この高校の避難計画では、火災の場合は校庭に集合の上で1kmほど内陸の小高い場所にある寺院へ、地震の場合はいったん校庭に集合した上で校舎4階へ上がって津波に備えるというものでした。ところが3月11日当日は教室のある北校舎が大規模改修のために入れなくなっており(生徒はそのころ、2階建てのプレハブ校舎で授業を受けていた)、職員室や特別教室のある南校舎は入試事務のため立ち入り禁止になっていたのです。
 高さ6~7mの津波が来るという情報は地震発生から5分後には職員の持っていた携帯電話のワンセグ放送で届いていました。高校から海岸まではわずか500mです。
 狭い階段を上って4階に上がっていては間に合わないと考えた職員は、そこでとっさに1km先の寺院をめざすことにしたのです。

 ところが寺院についたときには津波警報が10mを越えるものに切り替わってしまい、教職員・生徒あわせて約200人は慌ててさらに1km内陸の気仙沼線階上駅をめざします。
 計2km走ってようやく駅に着いて広場に座らせ、点呼を始めようとすると今度は駅よりも高い国道方面から「津波が迫っているから早く逃げろ」という叫び声がかかります。津波はすでに目の前まで迫っていたのです。気仙沼向洋高校の生徒・教職員約200名は慌ててさらに数百m歩いて、ようやく階上中学校に避難することができたのです。

 最終的に津波は階上駅も押し流しており、生徒たちが津波に追いつかれる可能性は十分で、最初に寺院に向かって走るという水平避難を選択したことが正しかったかどうかは微妙です。しかし計画通り垂直避難を選んで校舎を駆け上がったとしても、気仙沼向洋高校は4階まで洗われてしまいましたから全員無事だった保証はありません(学校に残った職員や工事関係者は屋上に逃れて無事だった)。
 要するに「運」に恵まれたとしか言いようがなく、何よりも「運」が大切だということにもなります。
 

【動かなかった地域の人々】

 ところで気仙沼向洋高校の報告書には、学校防災から外れるものの、気になる一文が残っています。
「(寺院から駅へと非難する)途中多くの地域住民に会い避難するよう促したが,瓦礫の片付けなどをして避難する様子はなかった。その後襲った津波によって,地福寺を含むその地域は多大な被害に遭った」
 
 これが石巻市立門脇小学校との大きな違いです。
 門脇小学校の場合、学校が率先避難することで保護者・地域の人々が引きずられるように、あるいは無意識から目覚めて津波避難の列に加わりました。ところが気仙沼向洋高校の教職員・生徒は地域住民を引き寄せることができなかったのです。
 何が違ったのか。

 以前、「一般に教職員は土地の人間ではない、いわば外様です」と書いたことがありました。けれど相当に広い学区から生徒を集める高校の場合、生徒まで外様なのです。地震が来たからといってすぐに駆け付けることのできる保護者は少なく、ましてや一緒に避難するなどといったこともありません。
 一般に地域とのつながりも薄く、学校を心配して地域住民が続々と押し寄せるということもなさそうです。石巻の尾勝小学校や谷川小学校で保護者や消防団が駆けつけたのとは対照的です。

 その関係の薄さが、気仙沼向洋高校の場合、せっかく声をかけたのに地域住民を引き寄せることができなかった、助けることができなかったことにつながったのかもしれません。しかし逆に考えれば、だからこそ高校生は走り続けることができた、助かることができた、とも考えられなくはないのです。
 というのはあの2次避難場所に定めた寺院で、親しい地元民から、「大丈夫、高さ10mであろうとも、津波は絶対にここまで来ない」とお墨付きを与えられていたら、果たして高校生たちは動いただろうか、動き出すにしても話を聞くために数分をムダにしなかったのか、そんなふうに考えられるからです。

 このことは大川小学校の悲劇を考える上で、とても重要なことだと思うのです。

(この稿、続く)