学校教育のすべてに理由があるが、説明しきれるものでない。
また、説明できないからと言って無意味なわけでもない。
確信をもって言うが、音読も古文も漢文も、絶対に必要なのだ。
それが学校の常識、私の常識、新しい学校のリーダーたちの常識。
という話。(写真:フォトAC)
【学校教育のすべてに理由がある(ただ説明できないだけ)】
日本の教育は近代教育だけでも150年の歴史がありますから試された教育内容、蓄積された教育技術の量はハンパではありません。
なぜ小学校の教科は国語・算数・理科・社会などの10個に集約されるのかとか、なぜ諸外国ではほとんどやっていない家庭科が偉そうな顔で存在するのかとか、今どき毛筆で文章を書く人もいないのに書写の授業があるのはなぜかといったことには、すべて理由があるはずです。しかしあまりに項目が多すぎて、大半の教師は全部を覚えているわけではありません。もしかしたら遡って大学の授業を確認しても、教えてもらってないことの方が多いのかも知れないのです。
しかし説明できないからと言って無意味であるとは限りません。校則と同じように、なくして初めて不都合の見えてくることもあるからです。したがって学校から何かを削るときは慎重でなくてはなりません。中には取り返しのつかないことだってあるのです。
【「音読」はどこまで無意味か】
かつて、学校の指導法でもっとも疑問符がつけられ、批判されたのが国語の時間の「音読」でした。時代劇における寺子屋の授業風景を見ても、「子曰く(し・のたまわく)……」などと一斉に唱和する場面が出てきて、教育法としてはかなり古いという印象もあるのでしょう。
「大人になって、どこの世界に文章を音読する人がいるのだ。深く意味を読み取るという点でも文章は黙読が基本。少しでも早く黙読に慣れさせるためには、音読はできるだけ低年齢のうちに切り上げるべきだ」
というのが音読反対派の主たる意見でした。
しかし「音読」は「黙読」ができるまでの「繋ぎ」もしくは「代用品」ではありません。それ自体に価値と目的がるのです。教師たちは皆それを知っていましたが、世間に対して大声で反論するだけの時間的・体力的余裕がなく、仮にやったところでメディアの大きなうねりに飲み込まれただけだったはずです。
【音読の意義と目的】
音読というのは、一義的には日本語のリズムを体に滲み込ませるためのものなのです。美しい日本語には幾通りものリズムがあって、リズムで考え、リズムで伝え、リズムで受け取るとより正しく、より心地よい受け取りができるのです。
俳人や歌人が日常的に五・七・五でものを考え、ラッパーが常に見たこと聞いたこと、そして思ったこと感じたことをいちいちラップに変換し、音楽として通用するかどうかを確認するのと同じように、良き書き手は美しい日本語のリズムにのってものを考え、感じます。
丸谷才一が「日本語読本」で語った、
「見たこと感じたことをそのまま文章にしろと言っても書けるものではない。書くように見たり感じたり考えたりするのだ」(大意)
というのはそういうことです。
そのために教科書に載っているような名文を使ってリズムを取り込み、練習する。それが学校のやろうとしていること、当たり前の教育です。(*1)。
志賀直哉のような簡潔な文章をたくさん読めば、志賀直哉に近い感じ方と表現を手に入れることができます。谷崎潤一郎のような濃厚な文章をたくさん読めば、思考も書く文章も当然、ねっとりとしてきます。
ついでですが名文のリズムに慣れた体には、次のような詐欺メールもある種の軋みをもって響きます。
「お支払いを試みた際に、お支払い方法に異常が見つかりました。これは、クレジットカード情報が不完全であるか、銀行が支払いを拒否したか、その他の理由によるものです。お支払い情報を早急確認し、再確認して下さい」
何が変なのかはあとから吟味すればいいことです。とりあえず文章に引っかかりを感じれば、詐欺に引っかかることはないのです。
*1:音読によって言葉に情感を与え、しゃべり方の練習をするというのは、あくまでも二義的なものだと私は思っています
【論争のあっけない終焉】
ところで実はこの「音読不要・必要論争」、20年以上も前に解決済みなのです。実にあっけない終わり方で、2001年、つまり今世紀の最初の年に斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」がベストセラーになると、音読不要を訴えるメディアは皆無となり、逆に音読の重要性を語るものばかりになってしまいました。あれほど叩かれバカにされた教師にとって突然の大逆転は、むしろ不本意でしたが、音読の宿題を家庭にお願いするにあたって便利な情報となったことも事実です。
あれから20年以上も経ってまたそぞろ「音読不要論」が出てくるかもしれませんから、このことはよく覚えておきましょう。
【古文・漢文は必要ないのか】
学校教育というのはかなり専門的な領域だと思うのですが、やたらと素人に叩かれやすい場でもあります。あのやり方はマズイ、このやり方こそ正しいは年じゅう指摘されていることです。
その中で、最近気になっているのが古文・漢文の不要論。理由はいつもの通り、
「今どき古文や漢文を読んだり書いたりする大人が、どれくらいいる?」
大人になって使うかどうかが判断基準なら、数学の方程式や関数、理科の実験の大部分は不要ということになってしまいます。リトマス試験紙を欠かしたことがない家なんて、理科の先生のところだってないでしょう。
日本の子どもたちが古文・漢文を学ばなければならないのは、日本語の構文にはかなりの量の古文・漢文が含まれているからです。
「あの頃はまったくの四面楚歌でね」とか、「いわゆる神出鬼没ってやつだね」などは故事や熟語の成り立ちを知らないと理解できないのです。「不倶戴天」の意味を知らなくても、漢文を学んだ時の知識を使って漢字の並び順を変えれば、「倶(とも)ニ天ヲ戴(いただ)カズ」、つまり「絶対に一緒になれない相手」という意味だと分かります。
【古文漢文の素養がなければ豊かに生きられない】
言葉は知識であるとともに思考そのものです。人間は言葉を使って考えますから、そこから一定の要素が抜けると不十分な思考しかできません。漢文や古文の素養がなければ中島敦や高橋和巳の小説は理解できないか楽しめないでしょう。
先日亡くなった谷村新司さんの「昴」の歌詞には、「我は行く、さらば昴よ」という部分があります。私は好きではないのですが「我」の部分を「ぼく」にして「さらば」を「さよなら」にしたらどう気分が損なわれるかよく分かります。同じく、松任谷由実の「春よ、来い!」の中の「愛をくれし君の」の「し」は「た」では絶対にダメだという程度の感性は、日本人である以上どうしても持っていなくてはなりません。
え?谷村新司や松任谷由実、自体が古い? それでは椎名林檎はどうです?
「この世は無常 皆んな分かってゐるのさ 誰もが移ろふ さう絶え間ない流れに」(「獣ゆく細道」)
え? 椎名でも古い? じゃあ新しい学校のリーダーズでどうでしょう!?
「暗中模索 意気消沈 以心伝心 一日千秋 一触即発 一進一退 一朝一夕」(「試験前夜」)
古文漢文の素養がなければ豊かに生きられない
それは私にとっては常識ですが、世間的にはまったくの妄言のようです。
(この稿、続く)