8歳の孫のハーヴは最近、小説執筆に夢中、
いくらでも長く書けるのだという。
しかも発想は自由、文末の処理は的確。
いったいどうして、そんなことができるようになったのだろう
という話。
(写真:フォトAC)
【孫1号が小説を書く】
『冬が始まったころ、イギリスの白山村では新年に向けて準備が始まっていた。ところが、ある二十歳の娘のいる家では、始まろうとさえしていなかった。
その家の主人は「ムッシュ・ムダ―」という。
決して悪い人ではない。なぜ始まっていないかというと・・・旅に出ていたというのだ。
今、ムダ―はベルリン諸島にいる。
「ふぁ、旅ってものはいいな」
と彼は言うのだが、旅と言っても今はシーズンオフ……。
「冬っていったら観光によくないと言うだろう? だからムダーがおかしいんだ。」
「へ? おかしいって? うーん 違うと思えんのだがな」
「いやおかしいよ。」
…………』
小学校の3年生になったばかりの孫1号、ハーヴが書いた“小説”の冒頭です。こうした文章ならいくらでも長く書くことができるらしいのです。
【独自性と優れた文末】
何かおどろおどろしい事件が始まる直前の、のんびりとした英国の風景――。私には「イギリスの白山村」という命名も心地よくて、たぶん“ホワイト・マウンテン・ビレッジ”という村なのでしょうが「白山村」と書けば別の雰囲気も立ち上ってきます。現代では「外国語の固有名詞は日本語に置き換えない」というのが基本ルールだと思うのですが、こうした直訳は明治時代の小説にはたくさんありましたし、現代でも「指輪物語」が“Strider” をわざわざ「馳夫(はやお)さん」と訳したりエルフの短剣「Sting」を「つらぬき丸」と訳したりしたように、「イギリスの白山村」もなかなか思いつかない、ちょっと粋な命名とも思えます。「ベルリン諸島」に至ってはさらに誰も思いつかないでしょう。
ハーヴの文章はそんなふうに《自由な発想》という意味でとても面白いのですが、これも遠からず常識にとらわれて跡形もなくなってしまうものなのかもしれません。ハーヴの母親でシーナも叔父のアキュラ(私の息子)もみんなそうでした。
自慢のついでに、この”小説”のよいところをもうひとつ書いておきます。それは文末の処理がとてもうまいということです。
日本語の文章は放っておくと語尾がすべてア段の「~た」「~だ」、またはウ段の「~う」「~す」「~る」になってしまう傾向があります。しかしハーヴの文章はそれらをほとんど使った上に、「~い」で終わったり「・・・」にしたり体言止めにしたりと、おそらく自然に書けるのでしょうが、私自身はこの点でものすごく修行を積んだという自負があり、いまでも書き上げた原稿を推敲する最初の観点がそれですから、ハーヴの文の見事さにはまったく呆れます。しかしなぜそんなことができるようになったのでしょう。
【文章はリズムが先、リズムに乗せて書く文章】
それはおそらく“小説”を書いている間じゅう、ハーヴの頭の中では「ズッコケ三人組」や「かいけつゾロリ」「おしりたんてい」児童書のリズムが息づいていて、そのリズムに日本語を乗せて書いていくので、テンポのいい、文末が多様な文章に書けるのです。リズムに合わせて言葉を刻むラップ・ミュージックのようなものです。
ラップ・ミュージックは言葉の尽きない限り延々と続けることができますから、リズムに合わせる文章もいくらでも長く書けます。それがハーヴの「こうした文章なら、いくらでも書くことができる」理由です。
ただしテンポがいいだけで、内容はそれほど優れているわけでも、充実しているわけでもありません。推理小説に最も重要な整合性すらも置いて行かれます。ハーヴの“小説”が小学校3年生にふさわしく、話が二転三転してなかなか終結に向かって進んでいかないのはそのためで、この点でも祖父(つまり私)と似ているとも言えます。
ではリズムで書く文章はダメなのかというと、決してそうではありません。世界中の文章のほとんどは「リズムが先で言葉があと」という歴史を持っているからです。
日本の和歌や俳句・都都逸はもちろん、中国には五言絶句・七言律詩があり、古代ギリシャの「イーリアス」「オデュッセイア」、古代インドの「ラーマーヤナ」などはすべて大長編叙事詩、日本に戻って「平家物語」も、元は琵琶法師が音楽をつけて伝えた物語でした。
仏教の経典もイスラムのコーランもみなリズムに乗せて詠む文章で、文字がなかったり紙が高価でなかなか手に入らなかった時代は、長い文章を口伝しようと思ったら、すべてリズムをつけて歌うようにするしかなかったのです。
(閑話休題)
実は今日は「孫のハーヴは小説ならいくらでも書けるのに、日記はまったく書けない」という事実を手掛かりに、「日記」というものについて考えてみようと思ったのですが、日中、「明日から雨」という天気予報に脅されて、畑仕事をし過ぎてヘロヘロなので、続きは明日に回したいと思います。
(この稿、続く)