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「古典は日本人のアイデンティティ、日本人の心の寄る辺だ」~古典・漢文の学習はやはり必要。何なら英語はなくてもいい②

 「枕草子」を始め、「源氏物語」などの古典は、
 日本人が共通に持つ知的財産、心の寄る辺。
 これを失ってはならない。
 「光る君へ」も、いよいよ佳境に入る、
 という話。
(写真:フォトAC)

【日本人のほぼ全員がもつ共通の記憶】

 今週日曜日の「NHK短歌」(Eテレ 06:00~06:25)「スペシャル 短歌で『光る君へ』を10倍楽しもう!」*1の中で歌人俵万智さんが、大河ドラマ「光る君へ」の一場面に触れて、
「ききょう(ドラマの中での清少納言の本名)さんが四季・春夏秋冬の・・・とサジェスチョンしたときに、(中略)あそこで『春はあけぼの』ってみんなが、全国の人が思えたんじゃないかと思って、そういう意味でもグッときました」
とおっしゃっていて、私も同じことを思ったというお話をしました。

枕草子」は中学校1年生(または2年生)の教科書に載っていて、基本的に日本で中学校生活を送った人なら全員が読んだことのある最も基本的な古典です。ですから全員が反応できる、あるいは反応することが期待できる数少ない古典ですが、枠を高校生まで広げるとさらに多くの文献で人々とのつながりを持つことができます。なにしろけっこうな数の文章を、私たちは暗記させられてきたのですから――。

【知的共通財産としての古典】

 話は少し寄り道しますが、この「古典・名作の冒頭を暗唱する」というのはどうやら日本独自の文化ではないらしく、コンピュータの開発者のひとりで有名な数学者のフォン・ノイマンも、ディケンズの「二都物語」の冒頭を暗唱してみせたという逸話が残っています。ただ単に暗唱してみせたのではなく、いつまで経ってもやめないのでそばにいた一人が、
「まさかオマエ、全文を覚えているの?」
とからかうと、
「私はこれまで目にしてきた文章はすべて暗記している」
と豪語したと言いますからたまげたものです。
 もっとも天才でありながら傲慢でもあったこの人の自慢話、どこまで本当かは実のところ分かりません。それでも世の中にそうした才能を持つ人はいないわけではありませんから、眉に控えめにツバをつけて聞くことにしましょう。

 それに比べたら私など可愛いもので、ほんの短い節を幽かに覚えているだけです。
枕草子」なら「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山ぎわ、少し明かりて・・・」
源氏物語」は「いずれのおん時にか、女御、更衣あまたさぶらいたまいける中に・・・」
が限界。
竹取物語」は「今は昔、竹取の翁という者ありけり」まで、
土佐日記」も「男もすなる日記(にき)というもの、女もしてみんとてするなり」の先は何が書いてあるのか知りません。そもそも受験用に冒頭部分だけを暗記したのですから、それ以上、出てくるはずもないのです。
方丈記」は「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」
徒然草」は「つれづれなるまま、ひぐらし硯に向かいて」
平家物語」はかなりの長文を暗記していたはずが、いまは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」までです。
 しかも正直に言うと細部に自信がなく、思い出しながらも一方でネット検索をしてあちこち修正してこの程度です。しかしどれもこれも、聞けば思い出しますよね?
 覚えた点数だけで言えばけっこうな数で、これほどの古典を私たちが素養として共通に蓄えているかと思うと、なんだか頼もしくもあり、ホッとする気持ちも出てきます。それは民族として日本人が共通にもつ知的財産であって、日本人としてのアイデンティティに関わるものだからです。清少納言の四季と聞いてすぐに「春はあけぼの」が出て来る人が数千万人もいる――これほど力強いことはありません。

【古典・漢文の学習はやはり必要。何なら英語はなくてもいい】

 日本の教師たちの苛酷な勤務状況の原因のひとつは、明らかに学習内容の野放図な拡張によるものです。生活科・総合的な学習の時間・キャリア教育・ICT教育・環境教育・特別な教科道徳等々々・・・。そんなところから、「古典や漢文はもう使わないからやめたらどうか」といった話も出ています。もうそういう時代ではない――と。
 しかし「日ごろ使わないからやめた方がいい」というなら、関数も化学式も歴史も、ほとんどの場合は英語だって「使わないからやめた方がいい」部類に入ってしまいます。

 しかし実際のところ、古典や漢文は少なくとも関数や化学式、英会話よりは私たちに日常使いされがちなものです。しかも素養が問われる。
 関数や化学式が分からなくても恥ずかしいことはめったにありませんが、古文や漢文を知らないと困ることがあります。だって会話の中で「人間万事塞翁が馬」とか使いません? 使わなくても聞かされたことはありません? 四面楚歌だとか臥薪嘗胆だとか画竜点睛だとか聞いたことも、あるでしょ?
 子どもが生れた、孫が大きくなったというとき、もちろん「おしりたんてい」や「ズッコケ三人組」は読むにしても、相変わらず「桃太郎」だの「浦島太郎」だのといった日本の古典を話していません?
 さらに言えば私たちの話す言葉や書く言葉の中に、日本の古典や漢文のリズムは強く影響を与えています。

 私たち日本人は日本語で思考しています。ものを考えるとき頭の中を飛びかっているのは日本語で、普通の人はロシア語やアラビア語で考えているわけではありません。したがって日本語上手は考え上手です。
 現在の日本語は和語と漢語と若干のヨーロッパ語によって構成されています。さらに言えば和語の中には古い日本語の、伝統的に磨かれてきた語のリズムがあり、それを基礎に私たちは考え、話しているのです。そうしたリズムは、古文や漢文の学習なしには十分に身について行かないのです。
 古典や漢文の学習は絶対にやめてはならないーー現在の働き方改革の流れの中で何かをやめなくてはならないとしたら、それは平成以降に増えたまだ根の張り切れていないものです。総合的な学習の時間もキャリア教育も小学校英語もプログラミング学習も全部いりません。日本語の学習以上に大切なものはないのです。

【ドラマではいよいよ紫式部の仕える中宮彰子が宮廷に入る】

 さて、今週日曜日の大河ドラマ「光る君へ」*2では、中宮定子(高畑充希)にうつつを抜かす一条天皇(塩野瑛久)の目を覚ますべく、遂に道長(榎本佑)が最愛の娘・彰子(見上愛)を宮中に送り込むことを決意します。

 私たちが学んできた平均的な歴史だと、道長は娘を天皇の后にし、生まれた子どもを次期天皇に据えることで外祖父として権力を振るった、ということになっています。ところが日曜日の大河では夫婦そろって入内(じゅだい:宮中に入れる)に反対で、妻・倫子(黒木華)などは中宮様は出家したとはいえ今もなお、帝を思いのままに操るしたたかなお方、そんな負けの見えている勝負などに・・・」と頭ごなしに反対で、しかし道長はそれに反発して「勝負などではない、これは生贄だ」とまで言い切るのです。そこまで強く抵抗しながら、「宮中の混乱と天変地異を治めるためにためには彰子の入内が必要だ」とする周囲の声には抗えず、ついに道長は彰子入内を決意するというのが日曜日のひとつの主題でした。

 確かに、中宮定子が出家してから道長以外の貴族が二人も娘を入内させていますから、その意味では後れをとっており、道長が娘の入内に不熱心だったという解釈も成り立ちます。もちろん彰子が子ども過ぎたという事情もありますが。
 さてこれがどうなるのか――脚本家、やはりただ者ではない、と思わせるものがあります。

 なお以前にもお話しした通り、中宮彰子は当時の女性としてはかなり長命で(988年―1074年)、しかも藤原氏興隆のために大変な手腕を振るった有能な女性です。そうでなければ紫式部だの和泉式部だのを入れて後宮を切り盛りするなどできなかったはずです。上に立つ人ですから教養もハンパではなかったと思われます。ところが今週日曜日の段階では、彰子は全く主体性がなく、うんともすんとも言わないまるっきり頼りない娘です。ここにも何か仕掛けがありそうで、この先がとても楽しみです。

【追記】
NHK短歌 スペシャル 短歌で『光る君へ』を10倍楽しもう!」の再放送は明日、
7月4日(木) 午後2:10~午後2:35(東京地方)
「『光る君へ』(26)いけにえの姫」の再放送は、
7月6日(土) 午後1:05~午後1:50(東京地方)
です。