カイト・カフェ

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「『孫は来て良し、帰って良し』って、ほんとうなのかな?」~帰省した二人の孫を見ながら考えたこと

 ふたりの孫を連れて娘夫婦が帰省してきた。
 子どもは子どもなりにさまざまなものをもっている。
 それにしても「孫は来て良し、帰って良し」って、
 祖父母たちは、そんな冷ややかな目で孫たちを見ているのだろうか。
 という話。(写真:SuperT)

【娘夫婦と孫がくる】

 8月7日(月)の午後、娘の一家4人が帰省しました。私がここではシーナと呼ぶ長女と夫のエージュ、そして孫である二人の男の子、ハーヴ(8歳)とイーツ(4歳)です。いずれも本名は古臭いくらいの日本人です。

 ハーヴについてはこれまで何度も書いてきました。生まれたときに事故があり、その後も発達に問題があってずいぶん心配させた子です(*)。ただし性格的には生まれながらの《大人》で、育てやすさという点では飛び抜けていました。もちろん《だから心配》という面はあります。 
 孫2号のイーツの方はまったくの定型発達で、成長という意味ではほとんど問題はありませんでした。しかし定型発達の男の子というのは、それだけでかなり危険です。
 じっとしていたかと思うと急に走り出す、喧嘩をすれば手や足が出る、ときにワガママで頑固で、言い出したらきかないといった、ありとあらゆる面倒くささをもって今日まできています。
 また、現在4歳ということは人生の四分の三をコロナ禍のもとで過ごしてきたわけで、そのぶん私たち夫婦との接触も少なく、馴染の薄い子となってしまいました。男の子特有の面倒くささともほとんどつき合って来なかったので、愛着という点でも孫一号とは違うような気がしていました。
「いのちのこと」1〜シーナは幸福とともにある - カイト・カフェ以下。

【4歳児の手練手管】

 ところがこの孫2号はなかなかの《人たらし》で、私が娘の家へ行くと言うと喜んでジャンプをして壁に頭を打ち付けて泣くとか、私が着く時刻が近づくと外に出て待つと言ってきかないとか、大人を喜ばせるツボを良く心得ているのです。
 今回、私の家に来た際も、テーブルの上の置いてあった本を「これ、お父さんの?」と訊いたついでに、
「お父さんは好きかい?」
と訊ねると、
「うん、お父さん大好き」
 そう答えてすかさず、
「ジイジも、バアバも大好きだよ」
と付け加えることを忘れません。(生まれながら大人の)ハーヴには決してなかった資質です。ハーヴは防衛的には大人の目を気にする子でしたが、関心を引くということはなかったように思うのです。
 イーツはどこで大人を引き寄せる手練手管を学んだのか?
 これについては5年ほど前、児童センターにいた子どもたちのことも合わせて考えましたので、時間のある方はどうぞお読みください。kite-cafe.hatenablog.com

【「孫は来て良し、帰って良し」って、ほんとうなのかな?】

 さて、その孫たちが来る数日前のことです。ちょっとした隙間の時間に妻が、
「『孫は来て良し、帰って良し』って最初に言った人は誰なのかしら、ほんとうにその通りよね」
と言って私を驚かせ、怒らせます。
 「来て良し」とは言っているものの、来る前からこの言葉を使うのは明らかに力点が「帰って良し」にあるように感じたのです。百歩譲ってそうでないにしても、《来る前から帰る日のことを心待ちにするような話はするな》というのが私の気持ちです。私は「孫は来て良し、帰って悪し」と思っているのです。

 もっともこの言葉、初めて聞いたときからずいぶんと違和感のあるものでした。「孫は帰ったら帰ったでそれも幸せ」みたいな、常識的な人間性に反することを、堂々と口にすることはあまりないように思ったのです。本音であるにしても、いや本音であればあるほど、口にはしにくいと思うのです。

 もちろん「紺屋の白袴」だの「伊達男、粋な薄着で、風邪をひき」みたいな、人を笑い者にすることわざや川柳はいくらでもありますが、それは他人をあざ笑うものであっても自らの人格を晒すものではありません。
 有名な「亭主げんきで、留守がいい」も、頭に「タンスにゴン金鳥タンスにゴンゴン』の前身)」とついているから冗談ないしは単なるコマーシャルだと分かるのです。
「だって『亭主元気で留守がいい』って言うじゃないですか」
といった言い方は、使いどころを間違えば人格を疑われかねません。ましてや直接、夫に言うべきものではないでしょう。

 そこで私は妻に言ったのです。
「それ、違うと思うけど、たぶん、オレもあの子たちが帰ってからなら言うと思うよ。
『寂しくなんかないや! 「孫は来て良し、帰って良し」って言うじゃないか!』ってね」

【ネットの答えと《遠足前気分》】

 ネットで調べるとやはりこの言葉に違和感を持った人たちが、あちこちの質問の場で訊いています。
「『孫は来て良し、帰って良し』って、そういうものですか?」
 それに対する答えは、
「孫が来てくれるのは嬉しいが、やはり気を遣う。ケガをさせてはいけない、病気にさせてはいけないと思うと気も張る。だからいなくなるとホッとする」
とか、
「孫と遊ぶのは体力的に本当に大変、疲れる。だから帰って良しということになる」
とか、
「非日常はそれ自体すばらしいものだが、日常が帰ってくるとそれなりにホッとする」
とかいった「帰ってくれてありがたい」といった声が並びます。
 そういう気持ちを持つ人もいるのだなと思いながら、しかしやはりすっきりしません。そこで思いついたのが、
「この言葉の真意、そしてこれが長く残ったわけは、孫が帰ってしまった現実を受け止めきれない祖父母たちが、自らを慰めるように使ったからだ」
という考え方です。

 一昨日、シーナの家族は東京に戻って行きました。その車の後姿を見送りながら妻は目に涙を溜めて鼻をすすります。
「やっぱ、あなたが正しかった。あの子たちがいなくなると寂しいワ」

 我が家では、楽しいことが始まる前に怖気づいて悪い方へ悪い方へとものごとを考えたがることを《遠足前気分》と呼んでいます。期待が大きすぎて《実際にそこまで楽しくなかったらどうしよう》とか《失敗したらどうしよう》とか考えて怯える、子どもっぽい感覚です。
 子どもたちが帰省する前の妻も、《遠足前気分》に襲われていたのかもしれません。