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「結婚式:結局は児戯だがやっておいた方がいい」~過渡期の結婚問題を考える④

 親族・姻族は結局のところ安全保障の枠組みである。
 普段は必要ないが、いざという時のために、
 大切にしておかなくてはならない。
 そのためにも結婚式、しないよりはした方がいい、かな?
という話。(写真:フォトAC)

【遠い将来の家族関係なんて見通せない】

 ずいぶん昔のことですが、新聞だか雑誌だかの人生相談のコーナーに、こんな話がありました。
「とにかく正月やお盆に夫の実家に行くのが嫌だ。特になにかを言われるわけでもないが、2~3日も大人しく愛想を振りまいて、猫を被って家事の手伝いをしたりするのがたまらない。盆暮れの義実家への訪問はこれを最後にしようと思っているがどういうものか」
 文言はそのままではありませんが、「義実家(ぎじっか)」という言葉を初めて聞いてびっくりしたので相談内容までよく覚えています。
*1:ちなみに私は最初、「義実家」を「よしざねけ」と読んで源氏か藤原氏の誰かの話かと思い、それにしても文意が通じないので、改めて読み直し、ようやく「婚姻によって結ばれた義父・義母のいる実家」のことだと合点しました。同じくその文脈で「夫の兄弟」は「義兄弟」と言うのですが、私の世代がこの言葉を聞くと思い出すのは、ヤクザの親分と盃を交わして親子関係(親分=子分)を結んだ際に自動的に生まれる兄弟関係(兄貴分=弟分)のことです。「鶴田浩二高倉健は義兄弟」みたいな使い方ですから、いまだに違和感があります。若い女性が「義兄弟」と口にするのを聞いたりすると、少しどぎまぎしてしまいます。

 その質問に対する回答者の答えは次のようなものでした。
「義理の関係も含めて世の中の親子関係にはさまざまなものがありますから一概には言えませんが、義理の両親がやたら口うるさいとかあれこれ過重な用を言いつけるとか、あるいは家庭のあり方につていちいち口出ししてくると言った事情のない限り、お盆や正月に義理の両親や実の両親の家を訪ね、近況を報告したり話を聞いたりして一緒に過ごすのも必要なことかと思います。というのは人間関係や状況と言うのはどこでどう変わるか分からないからです。
 もしあなたが今後一切義理の両親との関係を断って、例えば家を建てるとか子どもが生まれその子が病気になるとか、医学部に進学してしまうとか言ったときも、経済的な、あるいは実質的な援助を一切受けないと決心してもそれが上手く行くとは限りません。また逆に義理の御両親が年老いて動けなくなっても一切の支援をしない、そのために被る誹謗や中傷、家庭内の不和にも耐えていけるとか、そういった覚悟ができればそれもいいかもしれませんが、それにしても将来に何が起こるかは想像がつかないのです。

 今のあなたは御自分の両親をあてにしようと考えておられるかもしれません。しかしそれだっていつまで続けられるかは分からないものです。もちろん義理の御両親の方が先に亡くなってしまう場合も考えられますが、遺書に「遺産のすべては、いつも家族で遊びに来てくれた(別の)子の方に残して、他の子には一切渡さない」などと書いてあっても苦にしないでいられるでしょうか? もちろん法律上の権利はあるので遺留分はもらえますが、そうした状況にも平静でいられるものでしょうか。

 そうしたことをすべて考えてみると、1年365日のうちの盆暮れ合わせてわずか一週間ほどを、アルバイト気分で良いお嫁さんを演じて、点数を上げておくのも悪くないように思うのです。よほど相手の御両親が悪い人間でない限り、演技であっても「良いお嫁さん」を大事にしない人はいないはずです。

【私は親戚が増えるのがうれしい】

 昨年、母方の100歳と97歳の伯母姉妹を続けて亡くし、しばらくして父方の98歳の伯母も亡くしました。年齢が年齢ですので12年前の父の葬儀以来ほとんど会っていない伯母たちですが、やはり寂しい思いがしました。伯母が亡くなれば従兄弟たちとの関係も静かに消えていくことになります。
 けれど上での親戚関係が消えていく同じ時期に、下では新たな関係が生れていきます。10年前、娘のシーナが結婚して婿と両親、さらには婿の妹と弟を親戚の仲間に加えることができました。その妹と弟はのちに結婚して、ここでまた二人が同じ姻族に入ります。
 一昨年は息子のアキュラも結婚して4人の親族を引き寄せてくれました。そのうちの一人はアキュラの妻の祖母に当たる人で、あまりにも可愛いお祖母ちゃんなので私は大好きです。

 こんあふうに親戚が増えることが、私は嬉しくてしかたありません。親戚が増えると安心なのです。私もいつかこの世界から消えていきますが、その後も娘や息子、孫たちのことを気にかけて支えてくれる人がたくさんいる、あの子たちの安全と安心は守られていく、そう考えるといつまでも心安ら蚊にいられます。そのためにも婚姻によって結び付けられた関係は大切にしていきたいのです。まさに安全保障の問題です。

【結局、普通にやるのがいちばん楽】

 実は私自身は36年前、当時としてはかなり「普通ではない」結婚式を行いました。
 挙式はハワイで格安に挙げました。ただし両家の二親も連れて行きましたから、新婚旅行の費用としてはけっこう掛かりました。帰ってから親戚とご近所だけを招いた簡単な披露宴を行いました。私はスーツ、妻は色留袖で出席し、何のセレモニーもないので実際には大カラオケ大会みたいになってしまいました。
 「親戚」と「ご近所」を呼んだのは、いずれも長く付き合わなくてはならない人たちなので、挨拶抜きという訳に行かず、披露宴でもやらなければ一軒一軒回らなければならないので、その方がよほど面倒だと考えたからです。
「職場」はひとが入れ替わりますから特に義理立てする必要はなく、「友人」は何かの飲み会の際に挨拶すればいいや、くらいに思っていました。呼ばれる側にしても、祝儀や宿泊の心配をしなくて済みますから楽だろうと――。
 ところがこの「外した人々」の中で問題が発生します。というのは彼らにしてみれば、自分の結婚式には私に参列してもらい祝儀も出させたのに、立場が逆になったら出す機会がないというのはどうにも居心地が悪いようなのです。
 結局、代表者が祝儀を集めてわざわざ私のところへ届けに来ます。そうなると私の方も引き出物を用意して、今度は一軒一軒配達です。面倒この上ない。しかも考えてみると祝儀はもらっても料理は出していないわけで、その分は私が丸儲け。今度は私の居心地が悪くなります。
 結局、普通にやっておくのが一番楽だった――。

 同じ思いは、それから20年以上経って義母の葬儀を「家族葬」で行ったときも思いました。慣れない形式で行ったため、不備も未知も山ほどあってほんとうに大変だったのです。

【結局は児戯だが、やっておいた方がいい】

 結婚式は基本的には一生に一度の大イベントです。
 しかし中身を見れば新郎新婦はタキシードにウェディングドレスまたは白無垢・打掛、羽織袴とほぼ様式化していて、両親も黒留袖とモーニング。女性の留袖はまだしも男性のモーニングなど、大臣と校長と新郎新婦の父親くらいしか着る人のない奇妙な代物です。
 キリスト者でもないものが十字架の前で愛を誓い、「天照大神」を「てんてるだいじん」としか読めない者が三々九度を行う。人前結婚式とか言って誓いの言葉を述べて証人とともに署名したあの書類、その後どうなっているのでしょうか――。
 挙式はまだしも、披露宴となるとファースト・バイト(ウェディングケーキを互いに食べさせるセレモニー)だとかジャンケンゲームだとかブーケトスだとか、どう考えても大人のやることとは思えない児戯が目白押しで、こんな遊びの場で「ジェンダーバイアス」だの「家父長制度」だのを大真面目で議論するのはそれこそが野暮というものです。
 
 私が独身だったころの飲み会で、すでに結婚していた先輩は酔った勢いで私にプロレスのヘッドロックをかけて、
「T(私の名)よなあ、男たるもの、結婚式で新婦に“裸踊りをしろ”と言われたらスッポンポンになっても踊らなくちゃあならねえものなんだ。まかり間違ってもやらないで済ませたものなら、一生、ことあるごとにねちねち言われるぞ」
 そう忠告され、私は忠実に守りました、
 どちらでもいいなら、結婚式は挙げておくべきだと私は思います。その方がリスクは少ないし、多くの場合、(精神的な負担も含めて)安上がりです。
 また余計な災厄を招かないためにも、できるならやっておいた方がいい(できないならやらなくてもいい)のが結婚式だと思うのです。
(この稿、終了)