カイト・カフェ

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「子どもたちは弱く、勉学は苦しい、だから・・・」~権威や権力がなくなることへの期待と不安④

 かつて学校において、校長は呆れるほど尊重されていた。
 もはやそんな時代ではないが、校長が“普通の人”いいのだろうか? 
 時には面白くもない勉強をしなくてはならない学校。
 子どもは誉めるだけで育って行けるものだろうか?
 という話。(写真:フォトAC)

 校長先生を神格化するという話をしようとしています。

【“校長お見送り”という陋習】

 先日、ネットの片隅で、
「いまどき校長の出張のたびに教頭(副校長)が玄関までお見送りするなんて、どういう時代遅れだ?」
という話題が盛り上がっていました。
 そんなことをしている地域があること自体に驚く人もいれば、見送りをさせる校長の傲慢さに呆れる人もいました。
 十数年前、私はその“見送る側”にいて、何の疑問も持たないばかりかむしろ好ましいくらいに思っていましたからネット上の議論には加わらず、蚊帳の外から見ているだけでした。
 
 確かに前近代的で時代にそぐわないものかもしれませんが、校長と副校長(または教頭)が互いに了解しあってやっているなら、外野の人間がとやかく言うような問題ではないと思うのですがいかがでしょう?
 やはり封建的なものはなくさないとダメでしょうか、ね?

【“校長お見送り”も悪くなかった】

 教員になったその日から、“将来は校長からやがて教育長”と出世の道を思い浮かべるひとはまずいないでしょう。20歳代のうちはもちろん、30歳代になっても目の前の仕事に夢中で将来のことなど考えている人はほとんどいません。ですから教頭・副校長・校長といった人たちが日ごろ何をしているのか、普通の教員はまるで気にしておらず、観察もしていないので実のところ何も知らないのです。
 校長の出張のたびに副校長(教頭)がお見送りするという話を聞いて、いまどきそんな陋習が残っているのかと呆れた先生たちの中には、もしかしたら自分の学校で今も行われていることに、気づいていないだけの人もいるのかもしれません。

 かくいう私も、それがしきたりだと知ったのは自分自身が管理職になってからのことでした。言われてみれば校長・教頭が職員玄関まで歩いていく姿は何度も見ていたのですが、単に時間がないからギリギリまで歩きながら話しているのだ、くらいにしか思っていなかったのです。
 
 もっとも自分が管理職になってからの「お見送り」は何となく楽しい仕事で、校長がきちんと校門を出ていくところを確認すれば、あとはゆったりと羽を伸ばせます。間違っても校長が校内に残っていて、気楽に構えていたところに戻ってきてひどい目に会う、といったことがないように念には念を押すといった気持ちでした。
 しかし校長を見送ることには、もっと深い意味もあります。それは――昨日も少し書きましたが、学校内で校長先生を祭り上げておきたい、偉いものとしておきたいという気持ちがあるからです。

【子どもたちは弱く、勉学は苦しい】

 私の中には常に、
「人間は弱いものだ、苦しいことを続けようというときは、さまざまな手段を二重三重に被せておかないと、自分を支え切れない」
という思いがあります。単に気力や意欲だけでは乗り切れないという意味です。その“弱いもの”の代表が子どもたちで、“苦しいこと”の代表が勉強だと思うのです。だから言い換えると、
「子どもたちに勉強を続けさせようとするなら、さまざまな手段を二重三重に被せる必要がある」
ということになります。

 もはや人間はあまりにも人工的な世界に暮らすようになりました。ですから自然なまままの学びでは生きていくのがかなり難しいのです。算数や数学、理科、国語といった教科も人間関係のスキルも、あるいは健康に生きるための知識や技能も、明治・大正・昭和と比べると一段と複雑で高度なものになっています。つまり昔よりずっと多くのことを学ばなくてはならないのです。
 そんな状況にある子どもたちに、励ましと賞賛を与えるだけで頑張らせることができるのでしょうか――そう私は考えるわけです。

【奪われた武器】

 古くから先人たちによって子どもたちに勉強をさせる仕組みはたくさん考えられ、実践されてきました。飴と鞭はその代表です。
 幼い子に実際に飴やご褒美を与えることで勉強をさせようという試みがありましたし、教鞭という言葉があるように、特に欧米では実際に鞭が使われることも少なくありませんでした。

 私の経験した範囲では、高度成長期、「親と同じ生活がしたければ、親より一段高い学歴を持たねばならない」という社会状況が厳しい受験へと私たちを駆り立てましたし、高校生のころは定期テストのたびに廊下に張り出される順位表が、陶酔と絶望をもたらす飴と鞭でした。暴力が勉強させるための手段だった時代もあります。
 しかしそのどれもが、単独では完璧な力を持っていなかったのです。
(この稿、次回最終)