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「あまりにも勉学に向かない現代、学校のアカデミズム」~権威や権力がなくなることへの期待と不安⑤

 それにしてもなんと勉学に向かない現代か。
 すべきことは増えているのに、誘惑はあまりにも多い。
 そんな時代にあって、どう子どもを引き戻すことができるのか、
 家庭にできることと学校にできること。
 という話。(写真:フォトAC)

【あまりにも勉学に向かない現代】

蛍の光、窓の雪」とか言いますが、照明すらない家というもの、もちろんテレビもゲームもスマホもなく(時代的にもそうですが)、さぞかし勉学には向いていたろうな、と思ったりもします。
 私の幼少期も似たようなもので、テレビの入る直前でしたので夜の娯楽と言ったらラジオしかなく、NHKの第一・第二、それに民放一局では子どもの聞く番組もすぐに枯れて、あとは読書くらいしかすることがありませんでした。その読書ですら貧乏で本が買えず同じものばかりを繰り返し読むため、私は文字を覚える前に本の朗読ができたほどです(要するに暗唱していた)。
 もっとも、余談ですが「貧乏」はしていましたが、日本中が貧乏でしたからあまり苦になるものではありませんでした。

 しかしその環境が勉学には実に向いていたと今は思います。長じてテレビが家庭の中心にどんと座るようになっても、それは一家に一台しかなく、優先権は親にありましたから、部屋に戻れば天井を見るか本を読むか勉強をするくらいしかやることがなかったのです。
 もちろん、だからよく勉強したというわけではありませんが、現代の、テレビや動画、ゲームやマンガと戦って自己を学習机に向かわせなくてはならない環境と比べると、どんなに楽だったのかと、今さらながら思います。

 イヤイヤ現代も苦労ばかりではない、コンピュータが入って調べ学習など楽になった――そうおっしゃる方もいるのかもしれません。
 もちろんそうです。しかし私は首をかけて断言しますが、検索によって得た知識は楽をした分さっぱり記憶に残らず、調べ学習は必ず「また調べればいいじゃないか」状態に陥ります。そうなると記憶力に優れた人はどんな状況でも頭に入れてしまいますから、格差は広がる一方。現代の子どもたちはそうした分断(あるいは単なる置いてけ堀)とも戦わなくてはなりません。

【家庭にできること、しかしそれができない家】

 では彼らを取り巻く十重二十重の誘惑から、どのように子どもたちを引き離し、学問に向かわせることができるのか――それは結局、子どもの周辺に学問的な雰囲気、学術的な空気を配置しておくしかないと言えます。

 家庭においては居間に日本地図を張るとか地球儀を置くとか。あるいは居間専用のタブレットを用意して、気になることはいつでも調べられるようにしておくとかです。小さなころに買った動物図鑑だとか植物図鑑、宇宙図鑑だの昆虫図鑑だのが置いてあればある意味、インターネット検索より早いこともあります。また、部屋に子どもが管理することの決まっている植物や小動物がいることは、情操として必要なことでしょう。
「馬を川に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできない」と言います。そうなると川へ連れて行くまでが親の義務ということになります。

 ただし教育は家庭の責任として、すべて家庭に任せることはできません。家庭の責任にしていいなら、公教育など必要ないのです。
 家庭にはさまざまな形があって、子どもに十分な配慮のできない家もあります。先ほどの例で言えば、馬を川へ連れていけない(連れて行く気のない)家庭です。そうした教育的配慮のできない家庭の子でも社会的不利益を被らず、無知や貧困の世襲が起きないようにするのが公教育の仕事です。だとしたら学校も精一杯、子どもを誘惑から引き離し、学問をしようとする学問的な雰囲気、学術的な空気を用意しておかなくてはなりません。
 それを私は「学校のアカデミズム」と呼んでいます。

【学校のアカデミズム】

 一歩校門をくぐり校舎に足を踏み入れれば、そこには何かしら荘厳な空気が流れている。よく掃除された廊下の壁には古今東西の名画が架けられ、耳を澄ませると(休み時間のせいなのか)静かなクラシック音楽が流れている。屋外や体育館からは元気よく遊ぶ子どもたちの声が聞こえてくるが、校舎内は物静かで人の気配すらないようである。しかし教室にも図書館にも子どもたちはいるはずで、幾人かの先生たちも静かに仕事をしている。

 校長先生は暇さえあれば校長講話のネタ集めをしている。一カ月に一度しかないことだから、担任の先生たちの日常の話よりはずっといいものでなくてはいけない、そんな強迫観念に駆られて頑張っているようだ。事実、毎月の講話は子どもたちが心待ちにするくらい面白く、ためになる。

 もう一度屋外に目を向けると、そこには子どもたちと元気よく遊ぶ先生たちの姿もある。けれど子どもたちは知っている。休み時間こそ楽しくおもしろい先生たちだが、一歩教室に足を踏み入れたら友だちのように接してはいけない。先生は教える人で、子どもたちは学ぶ人間だ。生物学的には同じでも、”同じ人間”ではない。

 ここは学識という尊い宝が引き継がれる場だ。その宝を生み出したり運んだりした人たちの中には、学問ために命さえ投げ出した人がいくらでもいる。
 だから教師も相応の態度・所作をもってあたらなくえてはならないし、子どもたちにも中途半端は許されない。学ぶ人間としての服装・髪型・態度・発言などが厳に求められるのだ。
 
 そうした「何とはなしの重み」「威厳」「静かな圧力」、それらがあってようやく、人は学びのとば口に立つことができるのだと私は思っています。教師たちが腰を低くしすぎることに抵抗があるのはそのためです。
 
(この稿、続く)
*今週中に終えようと思ったのですが計画倒れ。来週に続きます。