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「大川小学校、津波が来ると予見できなくても避難はできた」~災害と学校⑤ 

 大川小学校の職員・地域の人々は津波が来ることを全く考えていなかった。
 予見できない条件が山ほどあった。
 しかし津波が来ないと思っていても避難はできたはずだ。
 そもそも他の学校だって、あんな大津波は予見していなかったのだから。

という話。

f:id:kite-cafe:20210316072003j:plain(大川小学校校舎《2019年9月撮影》)

 

津波が来ると予見できなくても避難はできた】

 東日本大震災の揺れ(14時46分)が始まって大川小学校の校舎を津波が押し流す(15時36分ごろ)までの50分間。その大部分を学校職員たちは、多少の不安は抱えながらも、津波が襲来するなど予想もせずに過ごしました。

 小学校は海岸から4km近くも内陸にあり、県のハザードマップでも津波の到達予想地点から800mも離れていました。津波の際の避難場所にも指定されていて、人々が避難してくる場所であってもそこから避難しなくてはならない場所ではないと考えられていたからです。実際15時ごろから地域の人々は集まり始め、15時23分(津波到達13分前)の段階でも、広報車で回ってきた市役所支所の担当者が立ち寄って、体育館を避難所にできないかどうか相談したりしています。その車は津波警報を知らせるために、さらに海岸方面へ向かっていきました。
 津波警報が出ていたにも関わらず、その高さ予報が6mから10mへと切り替わったにも関わらず、学校に残っていた教職員や地元の人たちの、誰も津波が来るなどと思っていなかったのです。15時30分(津波到達の6分前)、海岸へ向かった広報車が避難を呼びかけながら小学校の前を通過するまでは。

 では、津波が来ると予見できなかった以上、避難もできなかったのかというと、私はそれもないと思うのです。

 

津波対応避難マニュアルには可能性があった】

 道は二筋ありました。
 ひとつは防災避難計画に最初から織り込まれていることです。
 石巻市立門脇小学校の校長も仙台市立荒浜小学校の校長も、あれほどの大津波が来ることを予見して避難行動につなげたわけではありません。津波警報が出たらこうしなさいと避難計画に書かれていて、それをきちん具現したらああなっただけなのです。

 2019年10月確定した仙台高裁の判決でも、
  1. 大川小学校のケースでは、震災前の防災対策に過失があった。
  2. 学校には児童の安全の確保する義務があり、子どもを預かる以上、一般住民よりはるかに高い防災意識や知識がなくてはならない。
  3. 県のハザードマップの浸水予想区域に入っていなかったとしても、現場を預かるものとして独自の視点で再検討しなくてはならなかった。
  4. 学校の職員は3年程度で異動してしまうため、学校の防災対策に不備がある場合は市教委に指導すべき義務があったのにこれを怠った。
として市に賠償を命じています。

 驚いたことに判決では、有力な避難場所として人々が想定した校舎の裏山ではなく、「バットの森」と呼ばれる高台を指定しました。学校を出て大橋のほとりの三角地帯を越え、校舎から計ると700mも先にある私有林です。
 もちろん津波到達6分前にたどり着ける場所ではありませんが、校庭に避難が完了し、津波警報が出たことを知った14時50分ごろに移動を始めれば十分に間に合う場所です。

 津波警報が出たら「バットの森」に移動する――避難マニュアルにその一行があるだけで、大川小学校は一人の被害者も出さずに済んだのかもしれません。さらに同じ石巻市の門脇小学校の例を考えれば、少なくとも保護者は子どもたちの後を追い、地域の人々の多くが従った可能性もあります。

「県のハザードマップの浸水予想区域に入っていなかったとしても、現場を預かるものとして独自の視点で再検討しなくてはならなかった」
 この文言は厳しすぎる気もしますが、震災の1年前に市教委から避難マニュアルの見直しが指示されていましたから、普通の、優秀な校長だったら見逃すことはなかったでしょう。
 なにしろ大川小学校の標高は1m少々しかなかったのです。釜谷地区へは津波が来たためしがないという言い伝えも、1930年代以前、北上川はそこになかった(30年代にそこに付け替えられた)という事実を加味していないものでした。

 

 【校長の指示を仰ぐ】

 津波が来ると予見できなくても避難できた可能性のもうひとつは、繰り返される津波警報に不安を感じた段階で、指揮官が決断して高台に子どもを移動することです。校長不在でしたのでこの場合は教頭です。仙台高裁が避難場所としては不適切と判断した裏山ですが、結果論ではあるものの、崩れずに残ったのです。
 しかし教頭にそれはできなかった。

 教員はいわば外様。地域のことは地域の人間が一番よく知っているはずですから、その人たちに逆らって裏山に上るのは困難です。
 区長は地域住民の命に責任を持っていて、来るはずのない津波を恐れて老人たちを危険な山に上げるなどできないと思い込んでいます。ほかの人々ものんびりと警報の終わるのを待っています。そんな状況で住民を振り切って山に登る決断は、教頭には難しい。

 校長は学校から50km離れた大崎の自宅付近にいました。のちの証言によると、電話で何度も学校や市教委と連絡を取ろうとしたと言いますがその証拠は残っていません。結果的に教員としてただ一人生き残った教務主任も、校長と連絡を取ろうとしたが繋がらなかったといっています。
 しかし私はこの話が本当だったとは思えないのです。ごく常識的に考えて、教務主任が教頭を差し置いて校長と連絡を取ることなどあり得ないからです。また同じ理由から、教頭が校長との連絡を怠ることも考えにくい。そんな状況で教頭が最も欲するのは校長の指示だからです。
 目の前に津波が迫っているというほどの緊急事態でない限り、それがなければ動けない、教頭というのはそういうものです。校長の指示さえあれば、住民を振り切っても山に避難します。
 
 

 【校長は山へ行くなと言った】

 私の想像はこんなふうです。
 繰り返される津波警報、何人かの人々による避難のアドバイス。その中にあって不安を感じた教頭は地域の人々に「裏の山は崩れるんですか」「子どもたちを上らせたいんだけど、ムリはありますか」と聞き回ります(これには証言がある)。そしてその間も繰り返し校長と連絡を試みます。

 一般に大規模災害の際、被災地の外から被災地内への通話はかかりにくくなりますが、内部から外部への通信、内部同士は比較的通りがいいのです。実際、市教委は津波が来るまでの間はかなりの電話のやりとりをしていますし、住民たちも家族同士電話で話した様子が伝わっています。通話がダメならメールという手段もあります。
 15時29分の段階で「今、学校にいる」と家族にメールを打った女性がいます。校長も3日後に生き残った教務主任とメールのやり通りで落ち合ったと証言していますから、メールの扱えない人ではありません。当然、教頭との間で双方からメールが試みられたことは確実です。
 
 いずれにしろ教頭は「山へは行くな」という校長の指示を受けたのではないのかと思うのです。教務主任が再三「山はどうですか」と提案しても(それだって本当かどうかわかりませんが)、はかばかしい反応を示さなかったのはそのためだったように思うのです。

 

 【天災が人災になる】

 いろいろ読んで思うのは、大川小学校の悲劇は運命として受け入れることがとても難しいものの、しかし不可能なものでもなかったということです。何と言っても釜谷地区の多くの人々が、津波の襲来を予見できず亡くなっているからです。大川小学校だけが異なった判断をするのは、かなり難しい状況だったのでしょう。
 それにもかかわらずあれほど 大きな問題となったのは、多分に校長と教務主任の不誠実な言動があったからからです。こ
こから先には、もうひとつの危機管理の問題がありました。

(この稿、続く)