カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「器は小さくしたのに中身は同じてんこ盛り、その上で追加注文。良きことはなくせない」~教員の働き方改革が進まないわけ②

 「ゆとり教育」で学習内容も時数も減らしたのに、内容だけは戻した。
 そのうえ環境教育だのキャリア教育だの、
 以前はなかった新たな内容は増えるばかりだ。
 いずれも「良きこと」だけに、なくせるはずがない。

という話。(写真:フォトAC)

【器は小さくしたのに中身は同じてんこ盛り、その上で追加注文】

 指導要領を杓子定規に当てはめれば「毎日5時間授業」はなんとかなる。それなのに現在の学習内容では「毎日5時間授業」では果たせない。
 それが昨日の結論でした。なぜでしょう。
 答えは簡単で、そもそも指導要領が示す内容が多すぎるからです。

 なぜそんなことになったのか。主な理由は二つです。
 ひとつはかつて「ゆとり教育」の際、土曜日の授業をなくして完全学校五日制を実現し、同時に学習内容も大幅に減らしたにもかかわらず、激しい「ゆとり批判」に遭って内容の大部分を元に戻したためです。
 器を小さくするに際して中身を減らしたのに、器はそのままに中身を戻せばギュウギュウ詰めになるのは当然です。

 もうひとつは私たちが「追加教育」と呼ぶ、性教育・環境教育・国際理解教育・キャリア教育・防災教育などが、平成に入ってから爆発的に増えたからです。昭和の最後に企画され、平成元年の指導要領改訂で明らかにされた生活科(小学校1・2年生のみ)は、社会科と理科を潰して創設されました。そんなスクラップ&ビルトの節度は、平成以降なくなってしまったのです。

 追加教育のほとんどは独立して時間割の中に入れることはできません。1週29時間はすでに満杯で、何かを入れるためには別の何かを外さなければならないからです。社会科や理科、音楽や美術などはもう削りに削り切っていますから、これ以上へらすことはできません。そこで新たな追加教育は、社会科の一部分でこう扱い、国語ではこんな場面でこう触れた上で、興味を持たせ知識を深めよ、特に特別活動の時間(のちには総合的な学習の時間も)では、実践的な活動を行え、となるのですが、こちらはもうずっと以前から満杯でした。

 「特別活動」は年間で35時間以上、ということになっていますが、遠足に行けば6時間、卒業式の準備・練習・本番で5時間、児童・生徒会は委員会活動を月1回に絞っても年10時間と、とんでもない時間喰い虫で、何十年も前から35時間はおろか2倍の70時間でも不足していたのです。それがさらに苦しくなっています。
 もちろん「特別活動」の中核である行事の精選は繰り返し叫ばれてきたことですが、追加教育は増え続けますから入学式も卒業式も修学旅行も文化祭も、それらすべてなくしても35時間に納めることはできなくなっているのです。

 20世紀のイギリスの歴史・政治学者、パーキンソンが提唱した法則の第一は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」だそうですが、日本の教員の場合は「仕事の量は、与えられた時間をすべて満たしてもなお膨張する」のです。

【「良きこと」はなくせない】

 追加教育が教員の多忙の大きな理由なら、それ自体をなくせばいい。それが道理です。
 私はさしずめ「総合的な学習の時間」をなくしてほしい。教員の独創性が問われ、下準備が膨大ですから大きな負担です。

 一部の人々は性教育や環境教育もなくせ、と言っています。こうした教育は本来、家庭が担うべきだというのです。中には道徳も家庭に任せろという人もいます。それらを家庭に投げ与えても担えない家は多く、私は不賛成ですが、思いは理解できます。
 しかしいずれにしても、追加教育はひとつもなくすことはできません。すべて「良きこと」だからです。

 悪いことなら今すぐ捨てることができますが、良いことを棄てるのは厄介です。口に出して言ってみればいいのです。
「今後、学校では性に関する一切の教育を行いません。家庭でやってください」
「このたび学校は環境教育をやめることにしました。家庭と地域で行ってください」
 そのひとことがどんな反響を呼び起こすか、そしてどれほど学校が痛めつけられるか、痛めつけられた挙句、どんなふうに戻ってくるのか、容易に想像がつきます。

 かつて埼玉県庄和町(現在は春日部市の一部)の町長は給食廃止をぶち上げました。これで町の財政も教員の負担も大いに減るはずでした。しかし保護者・議会、全国のマスコミからの猛批判に遭い、町長の過労死によって立ち消えになりました。
 新潟県三条市は市長の意向で給食から牛乳を廃止しましたが、いまは元に戻っているのです。

 良いことをなくそうとすれば大変な目に遭うという具体的な事例ですが、ここにはそれ以上の問題があります。それについてはこの話の、一番最後の回で改めて扱います。

(この稿、続く)