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「日本人を日本人に育てる教育を守る」~13年目の3・11に際して⑤

 学校が教えるべきは「教科」だけではない。
 「世界一やさしく、安全で、きれいな国」
 それをつくるための学習は、絶対に欠かせない。
 なのに、人々はその重要性を忘れてしまっている。
という話。(写真:フォトAC)

【学校は勉強を教えるところなのか】

 教員の働き方改革に関わって、
「学校は勉強を教えるところだから、教師をそれ以外の仕事から解放すべきだ」とか、「勉強以外のことは家庭に返すべきだ」といった話があります。ここで言う「勉強」は「人生すべてが勉強だ」みたいな広義のものでなく、狭く、「教科」のことと考えてよさそうです。
 しかしその「教科」も、中学校で言えば、国語・社会・数学・理科あたりまでは文句なく合意できそうですが、音楽・美術・体育・技術家庭科となると「なくてもいい」と言う人も出てくるかもしれません。
 「特別の教科道徳」はどうでしょう。残せという人といらないという人で極端に割れそうな気もします。「総合的な学習の時間」については、現場の教師からは「いらない」という声も出てきそうですが、社会的には最も評価の高い学習内容ですから、これも是非が割れるところでしょう。
 「特別活動」(学級活動や学校行事、児童会・生徒会活動など)は、全部なくせば「お勉強」の苦手な子は息がつまってしまいますから中身次第というところでしょうが、修学旅行をなくせ、あんな格式ばった卒業式はいらない、運動会はいらないとおっしゃる先生もおられますから、思案のしどころです。

【修学旅行はなくせるか】

 例えば修学旅行に関わって学習指導要領の[学校行事]→2 内容→(4)遠足・手段宿泊的行事を見るとこんなふうに書かれています。
「自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,人間関係などの集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと」

 注目すべき点は平素と異なる環境で、「見聞を広め、自然や文化に親しむ」という知的な学びをするとともに、「集団生活」や「公衆道徳」について「望ましい体験を積む」という人間関係の学びをしなさいとあることです。修学旅行は思い出づくりが目的なのではなく、いわゆる「お勉強」と、人間関係の理想的なあり方を体験させることが目的だ、という話です。だから「今は親たちがあちこち旅行に連れて行くから修学旅行に連れて行く意味がない」ということにならないのです。

 すべてとは言いませんが大方の親が旅行のたびに事前学習をしっかりさせ、家族内の役割をきちんと確認して当日は果たさせ、気持ちの良い家族旅行ができるよう事前のルール確認と事後の反省ができるとは限りません。それができるような時代が来たら、安心して親に返すことができますが、その日までは「旅行を学習すること」は、学校が行うべき仕事です。
 卒業式も運動会もみな同じです。退屈だからやめる、大変だからやめるという訳にはいきません。それぞれ家庭には任せられない、特別な意味があるのです。

【私の、震災後の気持ちの変化】

 東日本大震災を経て、社会も変わりましたが私自身も変わりました。一番大きかったのは教育観です。
 震災前は“学校教育”を子どもたちの自己実現の道具だと思っていたのです。コミュニケーション能力を含む知識や技能を十分高めることによって、自分のやりたいように生きる、自分のなりたい自分になる、生き生きと生きる、そのための教育だと思って何十年も教師をやってきたのです。ところが東日本大震災を経て考えたのは「ひとのために役立つ」とか「誰かを助けることができる」とか、そういった「社会のためになる人材を育てる」ことも、学校の重要な責務だと意識し始めたのです。そんなことは当たり前ですが、教育の軸足が大きくそちらへ傾いたということです。
 
 そうなると本人が学びたいことだけを学んでいればいい、という話ではなくなります。少なくとも日本人として、できれば外国でも通用するレベルで、秩序を守るとか、人間関係を他人の分まで含めてうまく調整するとか、ルールを守るとか、責任を果たすとか、分担するとか協力するとか、そういったよりよい社会の一員として身につけるべき能力と態度と意欲は、否が応にも学んでもらわなくてはなりません。
 それはいわゆる教科――国語や数学や社会科の主目的ではありません。「特別の教科 道徳」と「特別活動」の目的です。だからこの二つは、「教科」に匹敵して大事に扱わなくてはならないのです。

【教科・道徳・特活の、時数のまやかし】

 困ったことに「特別活動(特活)」はやることが山ほどありながら年間35時間を標準時間しか与えられていない学習指導要領の鬼っ子です。いじめ問題などを話し合うべき学級会や学級内の係活動、学級レク、児童生徒会活動の総会も委員会も、音楽会も音楽鑑賞会も演劇鑑賞も、遠足も林間学校も修学旅行も入学式も、卒業式も交通安全教室もボランティア活動もキャリア教育も、そしそしてそれらすべての計画づくりや練習も、ぜ~んぶひっくるめて年間35時間(小学校で45分、中学校で50分の35倍)しかないのです。そんなのできっこない。
 そこで例えば旅行学習の一部を、社会科や理科の時間としてカウントし、運動会は体育の時間を食い潰し、音楽会は会全体を音楽の授業として計算するといった暴挙までして「特活」の時数を35時間に納めようとするのですが、それでも2倍の70時間くらいになることは珍しくありません。
 教科の時数に手を付けるというには、その分、本来の授業ができていないということです。そんなバカなことがありますか?

【学校教育が限界だとしても、削るべきは別にある】

 いまそんなことを言う人はほとんどいませんが、「総合的な学習の時間」はもう役割を終えたことにしてその分を特別活動に移すとか、キャリア教育だの小学校英語だのプログラミングだのといった平成になってから増やした「追加教育」はすべて外すとかして、教科は本来の内容を学ぶようにすべきなのです。そして特別活動は実際に必要な105時間に設定し直す。そうでもしないとどれもこれも《あぶはち取らず》で、教科は伸びない、人間関係能力も育たないということになりかねません。

 特別活動は東日本大震災のときに世界から見直された日本人の資質を育てる「日本の教育の核心」です。どんなことをしても守らなければならないのがこえれで、それなのに今、教員の働き方改革を理由に減らされそうになっているのです。運動会の縮小、清掃の時間のカット、児童会や生徒会は日常の作業当番活動のみ、遠足も午前のみで午後は授業・・・。

 かつて「教師にゆとりを持たせただけのゆとり教育」と揶揄され非難されたように、「教員が楽をするための大事な教育の大幅カット」と言われる日が目の前に迫っています。
 そうならないために、ほんとうに削るべきは何なのか、真剣に検討されなくてはならないのです。
(この稿、終了)