カイト・カフェ

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「多忙化の原因は学校教育の本体にある」~教師の働き方改革の行方④

 部活動が学校教育から切り離せないとなると、
 もう大規模な働きかた改革はできないのだろうか?
 そんなことはない。
 30年以上昔の教員は今よりもずっと長時間の部活をしながらも余裕があった。
 教職が苛酷になったのは部活のせいでも、保護者のせいでも教委のせいでもない。
 学校の本来業務が異常に増えたからなのだ。

という話。f:id:kite-cafe:20210415065928j:plain(写真:フォトAC)
 

【部活は学校から切り離せない】 

 中学校と高校の部活動はすでに日本の文化です。
 箱根駅伝高校野球Jリーグも、その他日本中のスポーツのほとんどが中学校の部活に支えられています。水泳やフィギュアスケートのように選手育成の主軸が校外に移っている場合もありますが、大部分は部活動が担っているのです。

 それを外部に委託する――といっても可能性はほとんどありません。
 例えば私の住む街には20の中学校がありますが、そのすべてに吹奏楽部があってこれを外部委託するとなると20人の専門家が必要になります。しかも市内に適度に分散していないと毎日の活動に差し支えます。さらに部活は吹奏楽以外に、野球もサッカーも、バスケットボールもバレーボールも、卓球にテニス、柔道に剣道、いくらでもあるので、用意しなくてはならない数百人にもなるでしょう。

 いや20校に20の外部吹奏楽部をつくることもないだろう、という考え方もできます。実際にアメリカのグラブチームは学校数あるわけではありません。20校の吹奏楽部を外部に委託するなら、地区を10ほどに分けて1地区にひとつづつ置くという方法も考えられます。
 ただしその場合は、アメリカと同じように保護者が練習会場まで送り迎えしなくてはなりません。それができる親の元に生まれた子だけが参加できるということです。

 また親に送り迎えさせる以上、練習中はずっと球拾いだとか楽器磨きだとかいったわけにはいきません。全員が同時に練習ができない競技や活動では、どうしても選抜が必要になってきます。逆に言えばスポーツにも芸術にも取り立てて才能のない子は必然的に帰宅部になってしまうわけで、この子たちの放課後についても何らかの抑えが必要になります。
 合衆国でクラブチームが盛んな背景には、これらをすべてクリアできる社会があるということです。

 日本にアメリカ型クラブ―チームを定着させるなら、まずチーム経営がきちんと行われるよう、遅くとも15時には学校を出られるよう学習内容を削減し、輪番にしても一部の親たちが同じ時刻に職場を離れ、子どもの送り迎えやチームの運営に協力できるような社会体制づくりから始めなくてはなりません。今、学校が困っているからといってすぐに達成できるようなことではないでしょう。
 いまさら「中学生の子どもが15時には学校を出てしまう、それ以降の管理は親の責任でしっかりお願いします」と言われても、保護者は困惑し、抵抗するだけです。

【減らすこともできない】

 そんな説明をすると部活の負担に苛立つ先生の中には「だったらやりたい先生だけがやればいい」などと無茶なことをおっしゃる方も出て来ますが、300人規模の学校で「やりたい先生」が4人しかいなかったら(改めてやりたいかどうか問えば手を挙げる先生はその程度でしょう)、1部活75名の大所帯です。やはり選抜試験を行って半分以上を帰宅部にするしかなくなってしまいます。もちろん学習塾に通う子もいれば他のお稽古事に出かける子もいますが、どちらも続かない子は下校時刻の午後4時から、夏の陽の長い時期で午後7時ごろまでの3時間あまり、毎日、街をうろつくしかやることがなくなってしまいます。親や教師はその不安に耐えられるのか――。

 では中学校の教員は今後も永続的に過酷な部活動に耐えて行かなくてはならないのでしょうか?――そんなことはありません。なぜなら30年以上前はおそらく今よりもはるかに長時間の部活をやっていたのに、今ほど苦しくはなかったからです。土曜の半日授業もあって午後は部活三昧で、時間的には厳しかったもののけっこう楽しくやっていました。今ほどは苦しくなかった。

 なぜ教職は苦しくなったのか――。
 答えは簡単です。部活が過剰になったわけでも行事が増えたわけでもない以上、学校教育の本体、授業と学校運営上の仕事が増えたのです。

【負担の象徴:総合的な学習の時間】

 度重なる教育改革のためにこの20数年間に何が増えたのか――。まず挙げられるのは「総合的な学習の時間」(2000年~)でしょう。

 私は総合的な学習の時間の理念も実際も素晴らしいものだと思っています。しかし、一般にはまるで注目されませんが、これによって中学校の学級担任はそれまで教えていた自分の専門教科(国語・数学など)・道徳・特別活動(教科教育と道徳を除く学校のすべての活動・生徒会や学校行事など)以外に、週3時間の新たな授業を行わなくてならなくなったのです(現在は週2回)。
 しかもこれは教科書のない、生徒・地域の実態と教師の独創性に基盤をおいた「生きる力」をつけるための学習とされ、その負担は膨大なものでした。初期においては「総合的な学習の時間」や「生きる力」などの概念から学び始めなくてはなりませんでしたし、生徒・地域の実態はそのつど調査しなくてはなりません。学校や担任クラスが変わるたびに内容を変えなくてはならないこともあります。

 もちろん新しい内容を盛り込むに際して文科省は古いものの一部を削りました。学校5日制の完全実施と同時の改革でしたので、国語や数学など教科の内容も多くを削ったのです。それがあの悪名高い「ゆとり教育」です。

 「ゆとり教育」はそれが完全実施される以前から激しく攻撃され、10年後の学習指導要領で旧に復されることとなります。内容を元に戻すなら「総合的な学習の時間」もなくし土曜授業も復活されなくてはならないのに、枠はそのままに内容を戻したので現場の負担は倍増し現在に至っています。
 私の「学校教育の寄せ鍋」を例にすれば、鍋を小さなサイズに替え、新しい具材を入れるために定評のあるハンペンやガンモドキを減らしたら文句が出たので外した具材を再び戻した、そんな感じです。

【新しい教育が教師を苦しめる】 

 「総合的な学習の時間」は新しい概念ばかりで本当に大変でしたが、このような新しい概念・新しい教育・新しい指導法は不断に学校に入り込み教師を苦しめます。そのたびに概念を学び、実践し、日々の授業に応用しなくてはならないからです。

 昔の子どもが生活の中で自然に学べたことを学習し直す生活科、新たに図工科に入ってきた「造形遊び」、課題解決学習、問題解決学習、絶対評価PDCAサイクル、最近はアクティブ・ラーニング等々。
 これらを実践するために犠牲にされたものは、私的時間と明日の教材研究の時間、そして児童生徒のことを考える時間です。

 もっともこれらは子どもの成長に役立つという点でまだ我慢できる部類の負担でした。ほんとうにやりきれないのは、どう考えても直接的には児童生徒のためになるとは思えない学校運営上の新たな負担です。

(この稿、続く)