カイト・カフェ

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「校長のすべきこと、してはならなかったこと」~災害と学校⑥

 事故や事件はないに越したことはないが、
 起こってしまったらそこからも危機管理だ。
 優秀な監督者かどうかはここで決まる。
 ところがそこに凡庸な、あるいは凡庸未満の人がいることがある。

という話。f:id:kite-cafe:20210317070124j:plain(大川小学校校舎《2019年9月撮影》)
 

【神戸児童連続殺傷事件の二人の校長】

 1997年に神戸市須磨区で起こったいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」では、加害者の在籍した中学校と被害者の在籍した小学校のそれぞれの校長が、対照的な姿を見せました。
 被害者の体の一部が放置された中学校の校長は、その日の朝から徹底したマスコミ拒否の姿勢を貫いたのです。

 まず、学校にかかってくる電話の一切に職員が出ることを禁止します。そのためマスメディアばかりか教育委員会・保護者とのやり取りもできなくなります。生徒や職員に緘口令を敷くのは当然としても、校長自らも一切語ることなく、自宅を避けて夫人の実家やホテルに寝泊まりするという有様です。当然メディアは面白くない。

 特に犯人少年が逮捕されたあとは、犯行声明に学校に対する恨みつらみが書かれていたり、警察でも「体罰があった」「学校に来るなと言われた」などと供述したため、学校に対する追及はいっそう厳しくなりました。
 あまりの追及に遅まきながらの記者会見を開くのですが、そこでの対応も木を鼻でくくったような受けごたえで、怒ったマスメコミは、誰が聞いたって明らかな「仮定の問題には答えられません」をわざと「家庭の問題」と聞き違えたことにして、翌日から「学校は体罰を家庭の問題に置き換えた」などと攻勢をかけたのです。

 事件から半年もたって校門が造りなおされると、その前で笑う校長の姿を遠くから望遠で撮影し、「事件の余韻の残る中でも校長、高笑い」。さらには卒業式の夜、校長がストリップを見に行ったところをまんまと撮影して掲載。
 おかげでこの校長は定年退職直前に処分を受け、再就職の口もふいにしてしまいまました。もっとも後に『校長は見た! 酒鬼薔薇事件の「深層」』などといった下品なタイトル(家政婦は見たの剽窃)の本を出版したりしていますから、同情する気にもなれませんが――。

 一方、被害者の在籍していた小学校の女性校長は見事でした。
 犯人逮捕の翌朝、記者が取材に訪れて、
「事件が解決しましたね。今、どんなお気持ちですか」
とマイクを向けると、
「解決? 何が解決したというんですか? J君(被害者)は帰って来ないじゃないですか」
と逆に詰め寄るのです。それが演技だとは思いません。本気でそう感じることのできる教師はいくらでもいます。
 私はそういった性質ではありませんから、
「まだ犯人が近くにいるのではないかと子どもたちも緊張の毎日を続けてきましたから、やはり捕まってほっとします」
などと当たり前のことを答えて、何の印象も残さず終わるはずです。

【校長のすべきこと、してはならないこと】

 事件や事故は起こさないに越したことはありません。しかし起こってしまったら、事後処理はそれ自体が重大な危機管理です。
 2011年3月11日以降の大川小学校について言えば、学校の(校長と九死に一生を得た教務主任しか残っていませんから二人の)、最重要で最終的な目標は、
「遺族にいかに寄り添い、その心を慰めるか」
でなくてはならなかったはずです。

 そのためにはまず、行方不明の子を一刻も早く見つけ出して親元に返さなくてはなりません。自ら探しに行くのは当然として、3月11日以降の市・市教委は多忙を極め、大川小学校にも目を向けられないでいますから、その目を強引にこちらに向けさせ、ひとりでも多くの人員を派遣してもらって捜索に尽くす、そこから始めなくてはならなかったのです。

 ところが校長は、本人の弁によると11日、震災当日の午後5時には大川小学校付近まで戻って来ていた(あの道路事情の悪い中、50kmの道のりをわずか2時間で戻って来た)のに、なんと六日後、17日になるまで一度も被災した学校に行っていないのです。それも前日、苛立った保護者の一人が避難所の連絡用ボードに「校長先生も一度学校にいらしてください」と書いたのを見てからのことで、翌日マスコミ関係者と一緒に訪れると、校舎の写真を撮り、学校の金庫を確認して帰ってしまったと言います。
 重機もなく、また遺体の傷つくのを恐れて、保護者たちは手でがれきや泥をかき分けているというのに、です。
 また、それ以前のことと思いますが、ある遺族は避難所で、「いまから捜索に行かれるのですか?」と校長に訊ねられて「はい」と答えると「行ってらっしゃい」と見送られたと言います。
 教育員会に初めて被害状況を報告に行ったのはその前日で、教委はそこでようやく大川小学校に大きな被害が出ていることを知るのです。

【生き残った者に責任がある】

 ただ一人生き残った教務主任の教諭は、大川小学校の裏山を越えたところにある自動車整備工場の母屋でひと晩泊めてもらったあと、その足で自宅に帰ってしまい、以後、3月25日に校長とともにいきなり教育委員会を訪問して事情聴取を受けるまで、どこにいたのか全く分かっていません。

 その証言も、山に倒木があって登れなかったとか、子どもたちが校庭にいる間に津波が来たとか事実と合わないことも多く、避難の列の最後尾という一番助かりにくいところにいたはずなのに波は被ったものの山に打ち上げられ助かったと言い、しかし一泊した自動車整備工場の社長夫人は、教務主任が濡れもせず泥もかぶらず家に来た(だから和室に上げた)という強い記憶を主張しています。

 教務主任はその後こころを病んで4月6日の第一回保護者説明会に顔を出したきり、医者に守られ、以後10年たった現在でも、誰も話を聞けない状態のままです。
 だから教務主任は(あるいは校長も)、あの数週間あるいは数カ月、茫然自失として正常な判断・行動ができずにいたという解釈も成り立つのかもしれません。それにしてもなすべきことが多々ありました。
(私は二人が震災後初めて落ち合った15日から教委の聴取を受けるまでの10日間に、さまざまに打ち合わせをしたのではないかと疑っています。それが教務主任の証言の不整合の理由だと思うのです)

 校長はまだ捜索の続いている3月30日に、間借りしていた小学校で大川小学校の登校式を行います。その様子はマスコミを通して全国に流され、「友だちは少なくなりましたが、笑顔いっぱいの学校をつくろう」という言葉は、遺族の精神を逆なでします。

 学校の再開は急がなくてはなりませんが、“登校式”などという誰も考えたことのない式を思いつき、しかもマスコミまで招いて行うという無神経は、その後の遺族と学校・市教委の関係に決定的にヒビを入れます。
 本来なら学校事故のあった校長には市教委の主事が二人も三人もついてアドバイスするのですが、当時の石巻ではそれどころではなかったという事情も災いしました。

【計画はなく、地域の支援もなく、運もなく】

 結果的に、大川小学校の悲劇が裁判になったことは良かったと私は思っています。これによって全国の学校の避難計画はより具体的なものになりましたし、亡くなった子たちの死にも意味が与えられたように思うからです。
 しかし一一般論として、保護者と学校の問題が裁判に持ち込まれるのは好ましいことではありません。

 「こころ」はその人の生まれと育ちによって決まりますから、すべての人が四半世紀前の神戸市須磨区の女性校長のような美しいこころを持てるわけではありません。しかしそれがあるかのように「振舞う」ことはできるでしょうし、できなくてはなりません。
 保身ということではなく、学校を代表して児童生徒・保護者や家族を癒せるのは、校長を置いて他にないからです。

 震災当時の石巻市立大川小学校には完成された避難計画がなく、地域の助言も割れてしまいました。そしてこんな凡庸未満の校長の下で被災したという意味で、本当に運にも見放された学校だったのかもしれません。

(この稿、続く)