「ことのあとさき」~文化史をこんなふうに教えておけばよかった

一昨日の記事で「アンです」だの「ゆうらしいや」だの話しているうちに

ふと社会科の授業について考えた

 

苦手な世界史も ちょとした工夫でもっと理解できたかもしれない

教える方で専門の日本史も 今となればもっと工夫ができたはずだ

あのころの生徒の 「で、それが何?」という顔が思い浮かぶ

 

というお話

 

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白河関芭蕉曾良の像)

 

【世界史は横の共通項を押さえる】
 私は元中学校の社会科教師で特に歴史を好んで教えてきましたが、高校時代までさかのぼると世界史が実に苦手でした。
 理由は簡単で、ヨーロッパ史の勉強でアレクサンダー大王が遠征してヘレニズムが栄え、ポエニ戦争が起こってローマの力が全盛になる――そこまで学んで釈迦の生まれたインドに移ると、ずいぶん前に死んだはずのアレクサンダー大王が攻めてきたりするのです。それで混乱する――。

 もちろんヨーロッパ史からインド史に移るときに時代を500年もさかのぼっていたのですから不思議でもなんでもないのですが、そのあたりの時間感覚がうまく調節できない。頭の中にストンと落ちて行かないのです。

 この場合は横軸をしっかりとるというか、同時代を示す共通の事項を押さえておけばよかったのです。年号はその点で有力な道具で、数字がバンバン入る人は年号を頼りに横軸をそろえればいいのですが、そうでない人には別の軸が必要です。
 私の場合は、たぶん「紀元前5世紀は哲学の時代だった」というような押さえ方をしておけばよかったのです。


【横軸――哲学の時代・寒冷化】
 大雑把に言って紀元前5世紀はギリシャソクラテスプラトンアリストテレスといった人々が活躍し、インドではバラモン教全盛なのに釈迦や六師外道といった異端が活躍した時代です。中国では諸子百家(諸氏は孔子老子荘子墨子孟子荀子など哲学者、百家は儒家道家墨家、名家、法家などの学派)が激しく活動していました。それを覚えておくだけで、時代の往復は楽になります。
 アリストテレスアレクサンダー大王のお師匠さんだし、孔子は「春秋」を書いたとされていますから春秋戦国時代の人だといった知識は自然につながってきます。


 紀元後4世紀ごろ、ヨーロッパでフン族が南下してゲルマン民族を押し出し、それによって西ローマ帝国が滅んで現在のヨーロッパの種ができます。同じ時期、中国では匈奴が南進し、秦の始皇帝万里の長城をつくってこれを防ごうとしますが、この二つの歴史的事件を結びつけるのは地球の寒冷化です。
 ふたつの騎馬民族――フンと匈奴は厳しい寒さのために居留地を捨て、南下せざるを得なかったのです。そんな切羽詰まった事情がなければ、何も命をかけて他民族を侵す必要はありませんでした。

「4世紀、地球寒冷化」というキーワードをひとつ掴むだけで様々な事件が結びつき、記憶に残りやすくなります。
 高校時代、なぜこうしたことに気づかなかったのでしょう?


【ことのあとさき――芭蕉の場合】
 高校時代のことを不意に思い出したのは最近、
芭蕉はそれまでの軽妙洒脱、言葉遊びを楽しむ俳諧を廃し、わび・さびを中心とする蕉風を大成した」
という文章を読んだからです。これも、なぜ気づかなかったのか。

 俳句は、いわばリレー短歌のような連歌を元に生まれた芸術です。したがって当初、短歌の性格を色濃く残していました。
 ここで言う短歌の性格というのは、例えば、私が好きな百人一首の中のひとつ、
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ 九重に匂いぬるかな」

にあるような仕掛けです。

 この歌では「7(奈良)、8(八重桜)、9(九重)」と数を数えるとともに、「九重」はもともと「宮中」(中国では王城の門を九重につくった)を意味するほか、ここでは「幾重にも」を意味し、「ここの辺」も掛けています。さらに「けふ」が「今日」と「京」を掛けるといったふうに非常に複雑な掛詞を駆使した歌なのです。

 あるいは大江山 いく野の道も 遠ければ まだふみもみず 天橋立は、作者の古式部内侍が藤原定頼に「歌会で詠む歌は大丈夫ですか? (代作をしてもらうために)お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使いは帰って来ないのですか」とからかわれて、即興で歌ったとされていますが、その表の意味は、
大江山を越えて行く野の道はとても遠いので、天橋立まではまだ足を踏み入れてみたことはありません」
 裏の意味は、
大江山を越えて生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立からの(母からの)手紙も見てはいません(代作なんかしてもらいません)」
ということになります。十代半ばの小娘の歌とは、とてもではありませんが思えない巧みさです。

 連歌はそうした和歌の流れを組み、俳句は連歌の中でも特に滑稽や戯れ、機知、諧謔を重視する俳諧連歌から生まれましたから、芭蕉以前は正に軽妙洒脱、掛詞の洪水みたいなものだったのです。それを芭蕉が一気に冷やし、わび・さび・軽み、あるいは不易流行のといった考え方の中に沈めたのです。やがてそれは日本人の日本人らしい感性の、重要な要素になります。

 ところが中学や高校の教科書には「芭蕉以前」と「芭蕉の業績」「今日への影響」のうち、真ん中の部分しかない。
松尾芭蕉は俳句の世界に、わび・さびを中心とする蕉風を打ち立てた」
で終わりです。頭に入らないわけです。


【ことのあとさき――利休の場合】
 芭蕉を100年ほど遡ると茶の湯の世界に千利休がいますが、教科書的には、
「この時期、千利休は侘茶を大成した」
で終わりです。教師は「侘茶というのは簡素簡略や閑静を楽しむ茶道で、現在も行われているものです」といった補足説明をしますが、生徒にしてみたら「だからナニ?」みたいな話です。
 
 現代日本人にとって決して身近ではない茶道が教科書に載るのは、信長や秀吉が夢中になった高価な茶器を振り回すような茶道に抵抗して、利休が極めて簡素な茶の湯を編み出し、身分の上下のない空間を生み出したからです。

 それが現代にどういう影響を及ぼしているかというと、例えば以来日本人はずっと成金趣味を嫌悪するようになり、明治の元勲にしても成り上がりにもかかわらずむやみに私腹を肥やそうとしなかったことにも繋がっているのです。
 それが日産の元会長ゴーン氏とトヨタ自動車社長豊田章男氏の違いでもあります。


【ことのあとさき――すべてについて】
 教科書にはさらに、
「このころより慈照寺東求堂に見られるような書院造が始まった」
とか
福沢諭吉は『学問のススメ』を書いて学問の重要さを訴えた」
とかありますが、いずれも考えてみると、「それでナニ?」です。
ほんとうのところは教師もよく分かっていません。
(上記の2問、書院造と「学問ノススメ」に限って言えば、今の私なら説明できます)

 特に義務教育の教師にとって、教科教育に注げるエネルギーは全体の三分の一だけで(後の三分の一は道徳教育、残りが保健衛生)、慣れると実際には十分の一も力を注げない仕事です。
 歴史ひとつをとっても、せめてすべての項目について、「その歴史事象は以前とここが違っていて、現代にこういう影響を与えている」という形で教えてやれればよかったな、と今は思います。しかし現実問題として、そこまで勉強する余裕はありませんでした。

 後輩教師たちにそうしたキメの細かい教材研究のできる時間的余裕が、早く与えられるようになるといいのですが。