カイト・カフェ

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「指導教科別、この先生のクラスが荒れない(中)」~子どもの導き方のあれこれ③

 音楽の先生というと芸術家だからたおやかな感じもするが、実はそうではない。
 彼らはタクト一本で千人も動かそうという独裁者だ。
 音楽習得の厳しい環境の中で育ってきたから基礎基本にもうるさい。
 そして学校全体を指導する中で自分のクラスも育てようとする。

という話。f:id:kite-cafe:20210210070404j:plain(写真:フォトAC)

【音楽室の専制(先生)君主】

 学校は人権と民主主義の牙城ですが、音楽室のみ帝政が敷かれています。何しろ音楽科の教師というのはあの30㎝ほどの細い棒一本で、30人、40人、場合によっては100人でも1000人でも自分の意志で動かそうとする人たちです。ただ者ではありません。

 指導では全員の前で耳も目も広く構えて、端の方でわずかに遅れた子、音の外れた子がいれば瞬時に判断して適確に指摘します。
「キミ、間違っているよ」

 この「キミ、間違っているよ」は同じ音楽でも鑑賞の時間だったら簡単に出てくる言葉ではありません。感想は個々それぞれですからレクイエムを聴いて“楽しそう”とかいったトンチンカンなことさえ言わなければ、大枠で認めてもらえます。しかし合奏や合唱はそうはいかないでしょう。その世界では金子みすゞをもってしても「みんな違って、みんないい」とはならないのです。

 答えは指揮者の頭と心の中にあって、そこに演奏者が影響を与えることはあっても、根本から異議申し立てをすることはできません。基本的には「伏して従え」の世界です。
 20世紀の名指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンが「帝王」とあだ名されたのもそのためでしょう。

【基礎基本に忠実】

 音楽科の教師のほとんどは、小さなころから何かしらの楽器演奏を学んできています。私は習ったことがないので知らないのですが、ピアノにしてもバイオリンにしても、初心者のころの不器用な指の動きを“個性だから大事にしなさい”と放置するような先生はいないと思います。そうでしょう?
 超一流の演奏者は何かしら個性を持っていますが、それは潰しても潰しても潰しきれなかったある種の偏り、その中で芸術的に価値のあるものだけをいうのです。ひとと違っていれば何でもいいというわけにはいきません。音楽科の教師はそれを、何度も叩かれて骨の髄まで思い知らされて育ってきたのです。
 だから基本というものに厳しい。人間として生きる上で必要ないくつかのこと、挨拶をするとか身だしなみを整えるとか、身辺を清潔に保つとかいったことに関しても案外うるさくやかましい人たちなのです。

 音楽科には女性教諭が多く、特に中学校の場合は主婦と兼ねることが難しいこともあって学級担任であることが少ないので目立ちませんが、指導に関しては良い意味で相当にしつこいところがあります。
 体育科と違って勝負師ではありませんから体を張って生徒に立ち向かう場面はあまりありませんが、いざとなればとんでもない声量で怒鳴りつけますから、怒られた方はとりあえずびっくりして黙る、気圧されるというということもあって、その点でも有利だと言えるでしょう。
 芸術家だからゆったりと構えていると思ったらとんでもない間違いで、かなり厳しい人たちです。

【校内での特別な地位を使う】

 体育科と音楽科は校内で特別な地位を持っています。両者とも全校に向かって号令する機会がとても多いのです。
 知・徳・体といった学校の三大要素のひとつを担う体育科が、授業とは別に全校体育や体育祭、小学校では運動会の中心になるのは理解できますが、音楽科が全校音楽や音楽会を通して学校全体を動かすことには法的・制度的根拠はありません。教育学は経験の学問であって、“理屈は分からないが子どものためにはいい”というものが相当たくさん定着しているのです。
 音楽はその筆頭で、今はやりの「エビデンス(科学的根拠)」を求められても困るのですが、子どもの情緒を安定させ、集団としてのまとまりをつくるのに格好の材料だと信じられているのです。したがって音楽科は、どんな学校でも大切にされています。
 その立場を使って、体育科と音楽科は不断に全校に働き掛けるのですが、音楽科でかつ学級担任をしている場合は、それが学級経営にはとても有利に働きます。クラスを外堀から埋めていくことができるからです。

 全校生徒に運動をさせたり歌を歌わせるときに大切にしていることは、学級経営で大切にしていることと同じです。自分のクラスに何かを訴えるにしても、「ホラ、他のクラスだってみんなやっているじゃないか」と言えるような学校づくり・学年づくりをしておけばとても楽なのです。
 優秀な教員はすべからく学校全体に関わって、外を固めることで自分の学級経営を有利に導こうとします。どんなに頑張っても、学校全体が荒れているようでは防ぎようがありません。
 体育科や音楽科のように全体指導の場に恵まれている先生は、それほど多くはありません。うらやましいことです。

【学級経営上、最も悲惨な人々】 

 ただしこの人たちにも不利なことはあります。年間指導時数105時間(週3時間)の体育はまだしも、音楽の授業なんて1・2年生で年70時間(週2)、中3になると35時間(週1)しかないのです。英語の教師が週4回も自分のクラスの授業をしているのに対して、音楽科は大事な中3でもたった1時間。道徳の時間、総合的な学習の時間を入れても週4時間にしかなりません。これでは他の教科の学級担任と対等な勝負はできません。
 
 しかし体育科や音楽科の先生がそんな愚痴を言えば、怒るに違いない他の教科の先生もおられます。美術科と技術家庭科の先生たちです。
 美術の授業は中1で週1・5時間(2週で3時間、また年の前半を週2、後半を週1にしたりする)、2・3年生だと週1時間。技術家庭科となるとさらに悲惨で、1・2年年生は週2時間、中3で週1時間ですが、これを技術科と家庭科で分け合うのです。
 道徳と総合的な学習の時間、朝夕の会、給食時間、それが日常的な指導の場のすべてで、しかも体育科や音楽科のように全体指導の機会が与えられているわけではない。なんと不公平なことか!

 そして不公平だからこそ、美術家と技術科・家庭科の中から優秀な学級担任も出てくるのです。

(この稿、続く)