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「いじめ行為をどう抑え、加害者をどう癒すのか」~高垣忠一郎氏を偲んで③

 具体的現場で、いじめの加害者とどう対峙するか――。
 急がなければ被害者が危うく、
 ゆっくり向き合わなければ加害者は救えない。
 その矛盾をどう解くかーー。
という話。(写真:フォトAC)

【いじめ指導の二律背反】

 いじめ問題が明らかいなった時、まずすべきは現在進行形のいじめ行為をやめさせることです。一刻も早く止めないと命に関わることもありますから急務です。親だって黙っていません。
 また、被害者自らが大人社会に通報した場合や、そうでなくても被害者が通報したと疑われると、いじめがさらに苛烈になることもありますから要注意です。
 しかし一方、加害者の中に強い被害者意識がある場合は、じっくり時間をかけないと根本的な解決には向かいません。極めて主観的でいびつなものですがそれは加害者にとって“正義の行動”ですから面倒なのです。心のどこかに大きな歪みがあるわけで、一朝一夕にカタがつくという訳にはいかないのです。
 急いで、慎重に、時間をかけて根治する――いじめ事件で学校がしばしば失敗するのは、こうした二律背反をうまくコントロールできないところからきています。

【とりあえず現状を停める】

 教師がまだ加害者生徒と腹を割った話ができる状況なら、とりあえず休戦の申し込みをします。
「何が正しくて何が間違っているかは今のところ分からないが、こんなことを続けていたら今日明日にもあの子は学校に来られなくなる、そうなったら世間はオマエたちがいじめて学校に来られないようにしたと思うに違いない。いや、分かっている、オマエたちにも言い分はある。オレは分かる。しかし学校中にオマエたちの悪評が広まったら、どうやってそれを説明して回るんだ? ひとりひとり捕まえて事情を説明するのか? それで聞いてくれるか? そんなことはないだろう。だから今はとりあえずあの子に触るな、近づくな、事情はあとでしっかり聞く」
 この仕事は必ずしも担任である必要はありません。話のできる教師が一人、校内にいればいいだけの話です。
 
 しかしそんな信頼関係で結ばれた教師がひとりもいない場合は、懲罰めいたものを用意して時間を稼ぎます。
「これからしばらく時間をかけて話を聞き、互いの言い分を聞くようにする。しかしその間にまた問題が発生するようでは対処しきれない。そこでとりあえず、オマエたちはあの子に近づくな、いっさい手を出すな、呼び出しても、遠くから威嚇してもいけない。あの子には私から何かあったらすぐに知らせるように言ってある。もし知らせず、あとでそのことが分かったら、オレがオマエをいじめるとまで言ってある。だからあの子は何かあれば必ず私のところへ来る、来ないわけにはいかない。そしてあの子が来たら、私は必ずオマエたちを呼んで話をする、親とも話をする。そこで頭に来てまた何かするようなら、あの子はまた私のところへ来る、来るようにしてある。また私がオマエやオマエたちの親を呼び出す、その繰り返しだ。だから絶対に手を出すな。あとのことはきちんとする」
 私はこのやり方に自ら「自動販売機方式」と名前を付けました。お金を入れてほしい品物のスイッチを押すと必ずその品物が出てくる、それと同じように、被害者を呼び出したり威嚇したりすれば、100%確実に私が出てくるという訳です。
 そんなふうに時間を稼いでおいて、あとは一人ひとりとじっくり話し、昨日申し上げた「事件の見える化」を計るわけです。

【短期決戦:人間と時間をたっぷり入れる】

 ただこうした仕事を一人で行うのは困難です。加害者・被害者あるいはほかの関係者が合わせて5人いるとして、ひとり20分ずつ話をしたとすると全部で1時間40分。こちらも授業があって忙しいですが、あちらだって授業や部活の合間を縫ってしか呼び出せません。1時間40分の指導の時間をとるのに3日~4日もかかってしまうのが学校です。

 いじめ事件はじっくり時間をかけて取り組んでいいような問題ではありません。早く対応しないと必ず長引きます。したがってこれらの事態が起こったら、校長・教頭・教務主任そして学年の先生方、場合によっては養護教諭や校務員にまでお願いして、大人数で一気にカタをつけるしかないのです。

 もちろんそれですべてが終わるわけではありません。
 初期対応は子どもたちに事件を客観的に見させ、加害者意識を引き出して反省を促すものであっても、根本的な解決に繋がるものではないからです。
 加害者の内なる被害者意識の問題はまだ手付かずです。被害者意識は心の問題であり、非常に繊細で時間のかかる主題なのです。検討の結果、家族関係を組み直したり、友人関係に手を入れたりといったことも必要になってくる、そういう可能性も考えておかなくてはいけません。ほんとうに大切なことは、そこから始まります。

【加害者の心をどう癒すか】

 悪いことをする人間に心豊かな人はいません。
 自分自身に信頼を寄せ、周囲に対しても安心していられる人は、被害者意識を持つこともなく、誰かに悪感情をもつこともないのです。

 私は高垣忠一郎氏の初期の著作『登校拒否・不登校をめぐって 発達の危機、その<治療>と<教育>』(青木書店 1991)に触発され、生徒と対峙するためのさまざまな手法について考えましたが、高垣氏自身はそこから「自己肯定感」という概念を築いて広めようとしました。Wikipedia の「自己肯定感」の項にはこんな表記があります。
「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎によって提唱された。高垣は自身の子どもを対象にしたカウンセリングの体験から、当時、没個性化(不登校・無気力・自殺などの根底にある、自己・個・人格・生きる意欲の喪失化)が生じていた子どもの状態を説明する用語として「自己肯定感」を用いている
  
 1991年の『登校拒否・不登校をめぐって~』には、ざっと見ただけですが、やはり自己肯定感という言葉は出ていないようです。しかし91年の段階ですでに、学校において大人の要求にも友だちからの期待にも応えられない、生きずらさを抱えた子どもの姿は出ています。いじめの加害者も立場は同じなのかもしれません。

 『登校拒否・不登校をめぐって~』以降の著作にもちゃんと目を通しておけばよかった――それが後悔です。しかし読むべき本は当時も他に山ほどありました。うまく行きませんね。
 高垣忠一郎氏のご冥福をこころよりお祈りします。

(この稿、終了)