「三つの児童虐待、地域の力」〜目黒女児虐待死事件より①

f:id:kite-cafe:20201209074510j:plain(ヨハン・ハインリヒ・フュースリー 「夢魔」)

【目黒女児虐待死事件】

 先週のニュースを遅ればせながら扱っているうちに、もう今週も金曜日です。なんだか玉突き遅延の悪い仕事をやっているみたいになっています。

 さて、一応教育関連の体を取っている本ブログとしては、当然取り上げていいはずの「目黒女児虐待死事件」が、まだ扱い切れていません。それには理由があります。
 虐待問題について、私の頭も心も、まったく追いついていけないからです。まるで深まっていかない――。

 私の91歳になる母は、ここのところニュースを見る時は必ずリモコンを握りしめ、児童虐待に関するものが始まると慌ててチャンネルを移してしまいます。虐待に関するニュースは1秒も見ていられないのだそうです。少し過敏すぎるきらいもありますが正しい感覚かと思います。私も穏やかな気分で見ることができません。
 たとえどんな生き物であっても子どものうちは可愛いものです。哺乳類に限れば可愛くない子どもなどひとつもいません。ましてや人間の子どもです。
 そんないたいけのない存在を、殴り、蹴り、寒風に曝したり水に漬けたり、あるいは食事をさせなかったり病院に連れて行かなかったりと、どうしたらそんなことができるのでしょう。まったく理解できません。その分からなさ、おぞましさ、残虐さが、私の目を事実から背けさせます。
 なぜそんなことができるのか?

南京事件ホロコースト

 話は唐突ですが、世界ではいわゆる南京大虐殺について、ナチのユダヤ人虐殺と対比させて語ることが少なくありません。それに対にして多くの日本人が抵抗しています。

 ひとつには世界で言われている30万人という被害者数が巨大過ぎ、また時間的にも不可能だと思うからです。
 相手は生きている人間ですからそう簡単に捕らえられ、銃口の前に立つことはありません。それを通常兵器で、毎日平均5千人ずつ、二か月間に渡って殺し続けたというのはやはり無理があると思うのです。もちろん原子爆弾のようなものを使えば30万人も一瞬ですが、日本は過去においても現在も、そのようなものは持ったことも使ったこともありません。
 私は掃討された便衣兵(ゲリラ兵)も含めて1万数千人というのが妥当だと思うのですが(それにしても大変な数です)、この問題に深入りすると大変なことになりますので、今日のところはやめておきます。
 私が今問題としたいのはそういうことではなく、被害者数が30万よりずっと少なくて納得できる数だったとしたら、私たちは南京事件ユダヤ人虐殺を同列に考えることができるかということです。
 私は、それでも少し違うような気がするのです。

 南京事件と対置していいとのはベトナム戦争におけるソンミ村事件とかルワンダ虐殺とかボスニアヘルツェゴビナにおける民族浄化とかいったもので、ナチのユダヤ人虐殺とは少し違うと考えます。
 何が違うかというと、前者には復讐とか戦闘地域における一種の高揚感とか、恐慌とか、あるいは不安や恐怖などからくる狂乱とか、そうした一種の“狂気”があるのに対し、後者(ナチのユダヤ人虐殺)には冷静・冷徹、機械的で合理的な“静けさ”みたいなものが感じられるからです。
 どちらがいいとか人間的だかといった話ではありません。質が違うという、それだけのことです。

【三つの児童虐待

 話を児童虐待に戻します。

 最初の節で私は、なぜ児童を虐待できるのか理解できないといった話をしました。そこで「児童虐待の心理」とったワードで検索にかけ、しばらくあちこち探ってみることにしたのです。するとたしかにいくつものサイトがヒットします。

 読んでいくと、「多忙・貧困・孤立・不和・育児疲れなどから生じるストレス」「子ども時代に自分が受けた虐待に対する復讐心」「抑えきれない支配欲」「意のままにことが運ばない、子どもに対するいら立ち」などのために、無意識のうちに突発的に行ってしまう身体的・心理的暴力――そんな説明が縷々綴られていたりします。

 理解できないわけではありません。もちろん「うん、うん、その気持ちよく分かる、私にもそういうことがある」と同調する意味ではありませんが、頭ではわかります。カッとなってパニックになって当たってはいけない対象に当たってしまう、そういうことは人間にはありがちです。

 しかし目黒の事件は違いませんか?
 照明も暖房もない部屋で生活させ、食事も十分与えず、足に重度の凍傷ができるほど寒い屋外に放置したり、午前4時に起床して自ら体重を測って記録させ、ひらがなの勉強をさせ、20項目にも及ぶルールを守らせ、衰弱してほぼ寝たきりの状態になっても病院に連れて行かない――そうしたことは、我を忘れてやったことではありません。
 “カッとなってパニックに陥り”が数カ月ないし数年続くとしたら、それはもう精神錯乱です。目黒虐待事件の両親はそういう感じではないでしょう?

 おそらく児童虐待には三つの種類があります。
 ひとつは貧困や不和、その他さまざまな事情によって生まれるストレスからくるもので、繰り返されることはあってもそのときどきは突発的、瞬間的、しばしば加害者があとで深い悔恨に囚われるようなものです。
 歪んでいることもありますが基本的には子どもに愛情を持っており、死に至るようなことはしません。
 ネットその他で説明的に述べられることの多いのはこの型の虐待で、私のような者にも理解できます。

 それに対してもうひとつは、「支配欲」くらいしか説明する論理がなく、継続的で冷酷で、容赦のない虐待です。少なくとも客観的には児童に対する愛情はなく、ゆっくりと死に向けて長く続くようなものです。
 ニュースとしてはたびたび取り上げられるのに、ネットでも書籍や講演の中でも語られることは少なく、私にはまったく理解できない虐待。今回の目黒事件に類するものです。

 さらにそれらとは別に、三番目に上げられるのが能動性のまるで感じられない、逃避的なネグレクト(育児放棄)です。
 わざと食事を与えない着替えをさせないといった攻撃的なものではなく、ただしない、面倒だからしない、他にやりたいことがあるからしない――文字通り「育児」を「放棄」してそのままにしておくような虐待の型です。死に直結する場合もあるので侮れませんが、いったん発見して救い出せば後の対応は比較的楽かもしれません。

【虐待死を減らす試み】

 分類はある程度状況を明らかにしますが、それで解決策が見えてくるわけではありません。そこでまた調べてみるしかないのですが、あれこれ当たっても児童虐待をなくすための絶対的な方策というものは出てきません。そんなものがあればとっくに事態は改善されているはずですから、見つからないのも当然といえば当然です。何を読んでも誰に聞いても、出てくるのは「虐待を怪しんだら迷わず通告しなさい」という程度のことです。

 もちろんそれは重要なことですが、現実問題として警察に通報しても児童相談所(児相)に回されるだけで、その児相も一人の担当者が数十の案件を同時に抱えているような状況ですから、救える命も救えません。

 だったら相談員を増やせばいいという話になりそうですが、ここ二十年あまり、虐待に関わる相談はうなぎのぼりに増えていますから、それに合わせて増員を重ねることなど到底できません。予算もなければ、そもそも人材だって果てしなくいるわけではありません。

 ではどうしたらよいのか。
 その方法を児相の相談内容から考えてみます。

 児相に寄せられる相談内容をみてみると、一番多いのが子どもの前で配偶者や親族らに暴力をふるう「面前DV」、あるいは他の兄弟と差別的扱いをするなどの「心理的虐待」です。総数は6万3千件あまり、全体の51・5%になっています(平成28年度)。
 統計的に言えば、ここは直接子どもの命にかかわらない部分です。その「命にかかわらない部分」を児相から切り離すことができれば、担当者にはかなり余裕が出てくることが考えらえます。
 実際にはそうした比較的深刻でない部分は、今でも児相から十分な支援を受けておらず、半分宙に浮いているはずです(何しろ手がたりませんから)。だったら最初からその部分の受け皿を作っておけばいいのです。

【地域で支える仕組み】

 地域には数々の子育て支援の仕組みがあります。民生児童委員や地域の保健師社会福祉協議会社会福祉士NPOらでつくる組織です。また学校には機能不全で形骸化している場合もありますが、地域と連携する仕組み――学校評議会や民生児童委員懇話会、学校支援委員会などがあったりします。
 現在、地域に欠けているのはそうした地域組織・学校・幼稚園・保育園等々を有機的に結ぶ組織または専任のコーディネーターです。そこさえしっかり押さえれていれば、いったん警察に通報され、そこから児相に回された児童虐待の案件は、救急搬送のトリアージのように分類するだけで、一部を地域組織にかえすことができるようになるはずです。

 ネグレクトの一部は母親の孤立を解き、養育スキル(具体的には調理など)を高めるだけで終わってしまう場合もあります。虐待を知らずにいた隣のオバちゃんの注意を喚起するだけで、問題の大半を肩代わりしてもらえることだってあるでしょう。そもそも地域組織がしっかりしていれば、警察に通報する前にことは解決してしまいます。
 「面前DV」はもう一度「虐待問題」から「DV問題」へと還元し、暴力事件として警察に対応してもらうのが最良の場合だってあるでしょう。貧困がカギとなるなら、社会福祉士の出番です。

 新たに組織を作れというのではありません。今ある組織を束ねる人をつくるというだけのことです(ただしこれは専従でなくてはなりません。片手間でやらせると絶対にできないからです)。
 肝心の、命に係わる問題はさらに深刻に対応してもらわなくてはなりません。児童相談所にはいっそうの権限と時間を与え、今回のような事件が二度と起きないよう、精一杯働いてもらうしかないのです。
 私はそう思います。