「あの人たちに恥という概念はないのか」~電車で出会った傍若無人な親子の話2

 電車の中で出会った傍若無人な親子
 あそこまで凄いとむしろ清々しい
 どうしてあんな人たちができあがってしまったのか
 あの人たちに恥という概念はないのか
 少し考えてみることにした

というお話。

f:id:kite-cafe:20190614072208j:plain(メアリー・カサット 「青い肘掛け椅子の上の少女」)

【あの人たちに恥という概念はないのか】

 東京から戻るローカル特急の車内で騒がしく歩き回る5歳と3歳くらいの姉妹、それをまったく注意しない母親と半ば一緒に遊んでいる父親。まるで絵に描いたような傍若無人一家を目の当たりにして、いかにも年長者らしく、
「最近の若い者は――」
と一席ぶってブログ記事にするのも“あり”だったのかもしれません。しかしあの家族に代表させたらあまりにも若者たちが気の毒です。
 あれはあれで例外でしょう。

 しかしその例外がいかにしてできあがったのか、なぜ何年も放置されてきたのか――世の中には似たような話がたくさんありますから、それを考えておくのも一興かもしれません。

 あの人たちに“恥”という概念はないのか、という問題です。

 

【もうすでに手のつけられない段階だという場合】

 ひとつの可能性は、恥という概念はあってももう手の施しようがないといった場合です。

 例えば中学生のくせに髪を染めて制服を着崩し、歩き食いをしながらくだらない話に興じて高笑いをしている男女をみたら、少なからぬ人々が「親は注意しないのかしら」といった感想を持つに違いありません。
 しかし子どもたちが人目も憚らず繁華街を異形で闊歩できるようなら、そのころはもう親の指導などまったく入らなくなっているのが普通です。
 親の言うことは素直にきけたり親の気持ちを慮って何かを抑えられるようなら、そんなかっこうにはなっていません。

 これは4~5歳児でも同じで、子どもの自由な活動を押さえるとパニックになって、1時間以上も泣いたりわめいたりしてまったく手の打ちようがないといった場合だと、親も半ば見て見ぬふりをせざるを得ないのです。下手に手を出せば余計に迷惑をかける。

 生まれながら三分の一の子は育てやすく、三分の一の子は育てにくい。残りの三分の一はどちらとも言えないと聞いたことがあります。
 数字的には根拠の薄い気もしますが、育てにくい子がいるのは確かで、癇癪持ちの子、危険を危険とも思わずやってしまう子、最初から聞き分けのない頑固な子、というのは確実にいます。

 逆に、最初から困難が少なく育てやすく、親に楽をさせる子というのもいて、私の孫のハーヴなどはその典型です。シーナも婿のエージュも認めていますが、躾が良かったというより乳児のころから躾のしやすい子だったのです。

 ですから少しぐらい“悪い子”がいて、手の付けられないことがあっても大目に見てやりたいところですが、そうした状況でも普通の親は周囲の目を気にして、多少は指導するふりくらいはするものです。

 私が出会った女の子の父親が、指を唇に当てて制止して見せたのはその範疇に入りますが、それにしても手立てが少ない。
 いま話している可能性とは少し違うような気もします。


【そもそも本格的に躾ける気がない場合】

 続いて考えられる可能性は、そもそも躾けることに不熱心な例――最初からかなり甘い指導しかしない場合です。
 ただしすべてが非難されるべきではなく、理解できる例もあります。

 例えば重篤な病気を持った子の中に、ときどき耐えがたいほどに身勝手でわがままな子がいたりします。小さなころから治療以外に“我慢する”学習をしてこなかった子たちです。私はその親を責める気になりません。

 躾の一部は本質的に“大人になった時に円滑な人間関係が送れるように”という願いから行われるもので、“今”を生きることに精一杯の子に躾が十分になされなかったとしても、それは無理なからぬことだと思うからです。
 喘息の咳でのたうち回っている子に、それでもすべきことをしなさいと言える冷血を、親たちに求めることはできません。

 子どもの病気の大部分は運命的に背負わされたもので、大人のように不摂生が祟ってといったものではありません。もともと本人が背負うべきものではなかったものです。その子が背負ってくれなければウチの子が背負っていたかもしれない困難です。

 そう考えると、背負えるものなら一部だけでも、その子の困難を私たちも背負わなくてはなりません。電車の中で騒ぐくらい何ほどのことでしょう。
 発達障害の子も知的障害の子も、その他さまざまな問題を抱える子も、一緒に支えていきましょう。

 しかしそうしたやむをえない事情ではなく、積極的に躾を拒否する立場もあります。先日お話した“10歳の不登校Youtuber「少年革命家ゆたぽん」くん”のお父さんあたりは近いのかもしれませんが、子どもの自由な発想・自由な行動を何よりも大切にする人たちです。

 そんな極端な自由主義子育ての行方については、これといった資料がないので分かりませんが、少なくとも私の知る限り望ましい成長があったという話は聞きません。

 もう40年以上前の話ですが、独特の子育て論で一世を風靡した漫才師の横山やすしさんや歌手のマイク真木さん、そのお子さんたちはすでに中年の域に達していますが、どんなふうにお育ちでしょう。以来芸能人は、むやみに子育てを語ったりしなくなっています。

【能力がないという場合】

 そして三番目の可能性が、“能力がない”というものです。

 私の出会った親子の足元で、早い段階でぶちまけてしまった物販のカタログはいつまでも散らかったままでした。終点で降りる間際に拾われて、元の網に戻されますが(長く床に置かれていたものを元に戻すこと自体が大問題ですが)、最後の一枚は座席の下に落ちたままでした。
 自分の家族が散らかしたものがそのままになっていることに、まったく抵抗感がないようなのです。

 子どもはまだしも、親の方はその年齢になるまで積んできた経験知というものがあるはずです。しかしそれをもってしても分からないことは分からない。
 公共の場で騒いではいけないことは分かっていても、どの程度だと“騒いでいる”ことになるのか、程度が分からないのかもしれません。分からい以上、ほんとうは誰かが教えてあげるべきなのでしょうね。

【なぜ騒いではいけないのか教えてあげよう】

 列車の中で騒いではいけないのは、本人が危険だということを除けば、人に当たったり物にぶつかったりしてケガをさせたり物を壊したりする可能性があるからです。
 それ以上に重要なのは、車内では、ある人は仕事をし、ある人は読書をし、ある人は勉強をしているということです。その人たちに集中を妨げる権利は、誰にもありません。

 列車の中にはさまざまな状況・立場の人がいます。それは外からは見えないことです。
 ある人は大切な会議に間に合わないと、ジリジリ焦る気持ちに胃を痛くしているのかもしれません。別のある人は大切な人の死の床に急いでいるのかもしれません。
 家族の葬儀の帰りという人もいるでしょう。はるばる東京まで行ってそこで別れ話をしてきたばかり、という人もいるかもしれません。
 2時間という乗車の時間を、ただ、ただ、声を上げて泣かないように耐えている人だっているのかもしれないのです。

 そんな想像力が働けば列車の中で騒ぐなどといったことはあり得ず、家族が騒ぐようならなんとしても抑えたいと思うでことしょう。
 それをしない以上、あの夫婦にはそもそも想像力というものが欠けていたのかもしれません。

【この子たちがつらいな――躾ができていないとイジメられるよ】

 他にどんな可能性が考えられるでしょうか? 今の私にはちょっと思いつきません。

 ただ言えることは、その場で乗客の誰かが怒ったとしても、あるいは車掌に通報して注意してもらったにしても、根本的な解決にはならないということです。
 
 幸い私は前の職業柄、子どもたちの騒ぐ声は平気ですし、「まったく躾のできていない子たち」を見てやろうといった下心もあったので放置しましたが、怒っても注意してもその場を静かにさせる程度のことしかできなかったことは確実です。

 小学校にあがったらこの子たちは苦労するだろうなと私は思いました。
 こんなに自分を押さえられないようでは、45分間の授業を黙って聞くなんてとてもできそうにありません。その45分が一日何回も、一年間に一千回ほどもあるのです。
 もちろん先生たちはそんな子でもある程度はきちんとしてくれますが、頭の中までは管理できません。

 45分間をちゃんと集中できないようでは成績も上がりません。勉強なんてできなくてもいいのですが、度を越してできないようだとやはり苦しい。そしてあまりにも苦しいようだと学校から逃げ出さざるを得なくなります。不登校もあれば非行もあります。

 また、ここまで人の迷惑を考えることができないようでは、あっという間にいじめの対象になってしまいます。少なくとも当座は迷惑を掛けられた方に正義がありますから、やり方も容赦なくなるでしょう。

 参観日などに教室に行けば、親も切ないだろうな、と思います。
 列車の中にいるのは通りすがりばかりで二度と会う可能性はありませんが、教室にいるのはご近所のお子さんばかりで、自分の子が迷惑を被っているとしたら親の目もきつくなります。その目で、家にいるときも見られているのです。

 先生も大変ですが、担任なんて2~3年も我慢すれば“ただの通りすがり”のようにどこかへ消えてしまいますから、やはりほんとうに辛いのは親とその子自身です。延々と苦しい。

 先ほど、その場で注意しても根本的な解決にならないと言いましたが、やはり何かしておくべきだったのかもしれないと今になって思います。

 子どもを注意するのではなく、その親の横に席を移し、とくと小一時間、膝を突き合わせて、まずどうして指導しないのかを訊ね、このまま成長するとどうなるかを伝え、一緒に心配し、一緒に解決の方向を探る、その程度の時間と知恵はあったのになあと――。

 まあ、やりっこないですがね。

                        (この稿、終了)