「勉強ができないにもほどがある」〜なぜ勉強しなければならないのか2

 先週土曜日のEテレ「ウワサの保護者会」の「どうして勉強しなければいけないの?」のその同じ日、『めちゃ×2イケてるッ!』では久しぶりのコーナー「国立め茶の水女子高等学校 抜き打ち期末テスト」がありました。  「抜き打ちテスト」は女性お笑い芸人や女子アナ、その他女性タレントが国語や数学といった一般的な教科のテストを受け、その解答を笑いものにする(番組ではイジる)ものです。    本人がそれを承知で出演していることや一部の出演者が“おバカ”を売り物に芸能界で生きていることを考慮しても、知識がないことをバカにして弄ぶ内容は教育上いかがかと思うのですが、今は問題としません、私も笑いながら見ていましたし・・・。    ただしその途中で思ったことは、 「(一部の出演者は)ここまでものを知らないと、実生活でもなかなかシンドイな」 ということです。例えば「だがしや」を「駄子屋」と書いたり、「勝海舟」を船の名、「無血開城」を城の名だと思っていたりするような例です。「猫」を英語で表記すると「KATO」だそうです。 【無知にもほどがある】  もちろん私たちの日常にもとんでもない思い違いや無知はあります。  娘のシーナは「直火(じかび)」を「ちょくび」と言って父親(私)を絶望させますし、婿のエージュは最近まで紅白歌合戦が男女別だということを知らなかったみたいです。かくいう私も30歳過ぎまで「あさくさ寺(浅草寺)」と「せんそう寺(浅草寺)」が同じものだと知りませんでしたし、真冬の植物への水くれに、冷たくてはかわいそうだと思って熱湯に近いお湯をかけて殺したりもしています。しかしそうした数々の無知は、圧倒的な“それ以外の知識”によって相殺され、“かわいいミス”くらいの扱いで見過ごされたりします。    しかしそれがたまにのことではなく、毎日毎日、しかも日に二回も三回も、繰り返し無知を突きつけられたらどうでしょう。あっちでも笑われる、こっちでも笑われる、しまいには気の毒がられ、同情の目で見られる――。そうなるともう怖くて何も言えなくなってしまいます。  ある“おバカタレント”は友だちの彼に、初対面であるにも関わらずいきなり「この漢字読める?」とテストされた経験を語っていました。油断しているとそんな目に会うのです。  もっとも“おバカタレント”の彼女たちは、美貌とか歌唱力とか、あるいは芸能界での強力な人脈とか、ほかにも戦う武器、誇れるものを持っているから平気でテレビに出てこられる、生き生きとしていられるのです。  普通の、たいして取り柄のない人間が、同じように無知をさらして生きなければならないとしたら、それは本当にシンドイことです。  しかしもちろん、その無知を隠して生きることもできないわけではありません。  社会科の知識を毎日試されるような職場や、漢字の読み書きができないと苦しい職場は最初から避けておけばいいのです。あるいは転職を繰り返しているうちに、居心地の良い場所は見つかるかもしれません。職業や職場は選択することができますから。 【ほんとうに辛いのは学校だ】   けれど“学校”は違います。  特に義務教育の学校は行かないわけにはいきませんし、そこでは毎日、国語だの算数だの知識や技能が試されるのです。    勉強なんてできなくてもいいですが、できないにもほどがあります。  具体的に言えば全教科で1ケタの点数しか取れないような子は一日中やりきれない、せつない思いをしなくてはなりません。  国語の時間に教科書が読めない、数学の時間に何をやっているのか分からない、社会科の歴史では聞いたことのないような人物や事項に苦しめられる――。  彼らは一日じゅう下を向いています。うっかり顔を上げて指名さえたり、教科担任と目が合って「○○、質問か!?」などと言われても困るからです。何を聞いたらいいのかさえ分からないのだから。  それでも校内に豊かな人間関係を持っているとか、部活で生き生きできるとかいった子はまだマシで、そんな子はまるで芝居の木戸銭のように授業の苦痛を別の楽しみのために耐え続けています。  ほんとうに苦しいのはそれすらない子どもです。教師から見てもなぜ学校に来られているのか不思議になるような子、影のまったく薄い子、いなくなっても誰にも気づかれないような子たち。    もちろん学校はそうした子に支援の手を差し伸べようとしますが、特別支援学級や学校に相当する子でなければ普通学級に置いておくしかありません。そして普通学級にいる限り、担任やその他の教師にできることは限られているのです。 【「なぜ勉強しなければいけないのか」の答え、その1】 「なぜ勉強しなければいけないのか」の答えのひとつは、 「あまりにも物事を知らなかったりできなかったりしたら、中学校に進んで、あるいは大人になってから、ほんとうに苦しむことになるから」 です。  具体的に言えば中学校の入学段階で掛け算九九がおぼつかない子、教科書を読むのもたどたどしい子に、生き生き生きろとか、自己効力感をもてとか言っても無理なのです。  せめて小学校で学習するような内容くらいは大人になっても保持していたい、テレビのテロップや映画の字幕が読めるようでいたい、方程式はできなくても「□をつかった計算」くらいはできてほしい、織田信長豊臣秀吉の名前が出ても怯えないでほしい、酸性とアルカリ性の違いくらいは知っていないと困る。  もっとも「先に行ってから苦しいよ」というのは案外子どもに通用しない言い方で、「目の前の苦しさ(つまり勉強)」と「将来の苦しさ」が並べられるとつい問題を先送りしたくなるのが人間の常です。  また、「結局、困るのは自分だよ」という言い方もダメで、「困るのが自分だけならかまわない」と言い出されるのがオチです(彼らは本気でそう考えている)。 【だったらどう話したらいい?】  だったらどうしたらいいのか――。  実は方法は簡単で、私たちの、親として教師としての正直な気持ちを語ればいいのです。  私たちが子どもたちに勉強させたい理由のひとつは、子どもが将来教室で、あるいは社会で、何もできなかったり分からなかったりして、人にばかにされたり笑われたり、あるいは自分自身苦しんだり悲しんだり、隠れたり隠したり、怯えたり、心が安らがなかったりと、そうなったら困るからです。そうなるかもしれないと考えただけでも気が狂いそうになるからです。そうですよね?  だったらそう言えばいい。 「どうして勉強しなければいけないの?」 「その答えはたくさんあると思うけど、いまママが考えているのはあなたが本当に勉強の分からない子になってしまったら死ぬほど切ないから、ということかな。  教室の中であなたひとりが問題が分からないで困っている、どうしたらいいか分からないで苦しんでいる、先生にあてられたらどうしようとびくびくしている、勇気を振り絞って発言したらそれがバカな答えでみんなに笑われる、そう考えただけでも胸がぎゅんとなって息苦しくなってくる。  勉強をして100点を取れとか一番になれとか言ってるんじゃなくて、とにかく普通に、みんなと同じように、怖がらずに教室にいられるような子でいてほしい、それがママの願いなの。だから小学校にいる間くらいは、なんとか頑張って一生懸命勉強してほしいな」 「私が悲しいから、あなたがガンバレ」 というのは小学校の高学年以上だと通用しにくくなる論理です。しかし低中学年のころは何とかなるでしょう。  何としても小学校卒程度の学力はつけておきたい――そう考えると、堀江貴文さんのように、 「正直、勉強する必要はないと思う。したくないんだったら」 とか、尾木直樹先生のように 「子どもたちの好きなことをしっかり応援してあげる」 などと悠長なことを言っているわけにはいかないのです。                                (この稿、続く)