カイト・カフェ

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「人はいつまでも同じではない」〜なぜ勉強しなければならないのか3

 先週土曜日のEテレ「ウワサの保護者会」の「どうして勉強しなければいけないの?」。子どもに対するインタビューの中で、中2の男の子が非常にありがちな疑問を述べていました。

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↑老けて見えますが中2です。

「正直いって今勉強していることを、あまり社会で使わないと思いながらしかたなくやっている。理科とか、理科のカエルとか、両生類とか、理科専門に行くならいいけど行かないので」
 ごもっともです。
 確かにそういう意見は少なくありません。

【中学校はどういうところか】

「中学校は大人になるための学校です。ですから子どもっぽいことは許されません」
 そう言ったのは国語教育界の伝説の巨人、大村はまさんでした(『教えるということ』)。(※)

 具体的に何が違うのかというと、「子どもの学校」(小学校)は日本国民として最低限の素養と教養を身に着けるところ――私は昨日、「小学校で学習するような内容くらいは大人になっても保持していたい」と書きましたが、そこで学ぶのは「それを知らなければ社会生活を送っていくうえで、大なり小なり支障をきたすような内容」です。

 それに対して「大人になるための学校」(中学校)では、卒業と同時に社会人としてやっていけるだけの最低限の素養と教養を身に着けることになります。
 技術者になるなら機械工学の基礎の基礎を、科学者になるなら科学や物理学の基礎の基礎を、音楽家になるなら音楽の基礎の基礎を、といった感じです。
 中卒で技術者や科学者はないだろうと言ってはいけません。あくまでも形式上、擬制としてということです。
※小学校は「子どもの学校」、中学校は「大人になるための学校」、こうした区分は小中両方で常に意識されていなければならないことです。そうでなければ小中で分けている意味がありません。一緒でいいなら敷地もひとつ、校舎もひとつ、校長先生も副校長先生もひとりずつで済むわけで、予算的にもかなり楽になるのですから。

 しかしだからと言って日本の場合、中学校の学習がそれぞれの進路に特化しているわけではありません。なんといっても小学校卒業時の適性や志望で将来を狭めていいのものかということが問題になるからです。
 先ほどの中2の男の子についていえば「理科専門」に行かないってホント? 絶対大丈夫? ということです。

 そんなふうに問い詰められればたいていの人は一歩引くでしょう。普通の子は大谷翔平藤井聡太ではないから「これでやっていきましょう!」とはならないのです。
 そこでしかたないので全員で、様々な教科を同じように学んでいる、それが中学校なのです。
 そのことを子どもに話してあげればいい。

 

【日本の教育】

 今、キミは「理科専門」に行かないって言ったけど、それホント? 絶対大丈夫?
 14歳の今のキミの気持ちで、今後70年も続くキミの人生を決めてしまっていいのかな?
 ホリエモンさんも尾木ママも「好きなことをやれ」、「親も子どもたちの好きなことをしっかり応援してあげなさい」って言ってるけど、その「好きなこと」、これからもずっと、永遠に好きでいられるかな?

 実は世界にはキミの年齢で人生の大枠が決まってしまう国がたくさんある。ヨーロッパの歴史ある国なんか特にそうなのだけど、小学校卒業くらいで「ああこの子は将来政治家になったり学者になったりする子だね」とか「この子の将来は職人か販売員だね」と決まってくる。そこで当然、中学校段階での勉強も変わってくる。それぞれの決まった方向への学習に傾いていくわけだ。

 しかし日本は違う。小学校の卒業段階では何も決めなくていい。
 将来「理科専門」になる子もいれば「法律専門」になる子もいる、音楽家のタマゴもいれば新聞記者のタマゴもいる。いろんな職業に就くいろんな子たちがひとつの中学校に同時にいる、だからありとあらゆる方向の勉強を全部詰め込んで、全員が「自分に関係のあるいくつかの教科」と「全然関係のないたくさんの教科」を学ばなくてはならない。

 でもキミは小学校の段階で将来が決まってしまう国に生まれたら幸せだったかな?
 「理科専門にはいかない」と決まっているから科学や生物の授業はゼロ、数学の時間もちょっぴり、そういうことでいいんだろうか?

 

【私の場合】

 実は私は高校三年生の夏まで、自分は将来数学者か数学に関係する仕事に就くと思っていたんだよ。数学がものすごく好きだったからね。
 「超難問数学問題集」みたいなのを買ってきて朝から晩までひとつの問題に取り組んでいる、そういことが大好きだったんだ。

 ところが高校3年生の2学期が始まる前に、突然、情熱が冷めてしまった、数学がさっぱり面白くなくなった。
 直接的には新しい数学の先生と合わなかったってことだけど、それで消えてしまう情熱なんてもともと大したものではなかったのかもしれない。

 ただし大学受験の直前だったからとても困った。数学以外何も考えていなかったし、キミと同じで理科が好きじゃなかったから、理学部だとか工学部だとかに行く気はサラサラない。未来が狭まるのも嫌だった。
 そこで将来どんな方向に進んでもよさそうな法学部に行き、何か免許くらいとっていた方がいいという不純な動機で教員免許を取りに行って・・・そしてハマったね。子どもと一緒にいて授業をするって、なんて面白いんだって――それで教師になった。

 人生なんてそんなものさ。

 さらに言えば、法学部で取れる免許は社会科だけなんだけど、考えてみると社会科は中学校の時一番嫌いな教科だった。歴史は好きだけど地理や公民なんてどこがおもしろいのかさっぱりわからなかった。
 でも教える側に回ってその気で勉強すると、公民は本当におもしろい。法学部卒だから政治を教えるのは当然おもしろいし、ほとんど知識のなかった経済は新鮮なことばかりでさらにおもしろい。
 そして教員生活の最後の方では、今度は社会科よりも道徳や生徒指導の方が何倍も面白くなっていた。
 そして夢中になった。

 

【「なぜ勉強しなければいけないのか」の答え、その2】

 長い人生、何が起こるかわからない。
 キミがこの先70年も生きている中で、ずっと理科が嫌いなままでいられるかどうかなんて誰にも分らない。

 もし嫌いなままでいても、将来、商社の社員になったら外国から食用ガエルの輸入をする担当になってしまう、といった気の毒な事もあるかもしれない。
 そのとき「カエルが両生類であって変温動物であって、小さな虫を食べている」という、その程度の知識のあるなしが、決定的な分かれ目になるかもしれない。カエルを見たことがあるだけでなく、触ったことがある、持ち上げたことがあるということが、重要なスキルであったりすることもあるのだ。

 昔、高橋和巳という作家がこんなことを言ったことがある。
「知識が役に立つかどうかということは、海に網を沈めて魚を獲るのに似ている。
 一匹の魚の引っかかる網目はひとつだが、だからといって網目ひとつを沈めて魚を追いかける漁師はいない。ひとつを生かすために、広大な漁網が広げられなければならない。

 それと同じで、ひとつの知識がいざというときに役に立つためには、膨大な知識の網を広げておかなければならない。知識には、一見ムダと思える大きな広がりなくてはならないのだ」

 キミにとっては今のところ、理科は「社会ではあまり使いそうにない」知識だ。しかし「あまり使いそうにない」からこそ、そばに置いておかなくちゃいけない。それは日常ではないから忘れやすく、そのくせいざというときに決定的に役立つ知識かもしれないからだ。

 どこでどう使うかさっぱりわからないけどとりあえず持っておく、キミがRPGロール・プレイング・ゲーム)でたくさんのアイテムを持ちたがるのと同じさ。

(この稿、続く)