カイト・カフェ

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「大川小学校の悲劇は防げたか」

 東日本大震災津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校を巡り、児童23人の遺族が市と県を相手取り23億円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁(高宮健二裁判長)は26日、市と県に約14億円の支払いを命じた。
 判決で高宮裁判長は、震災発生後、市広報車が学校周辺で津波が迫っていることを告げていたことから、「呼びかけを聞いた後では、大規模な津波の襲来は予見したと認められる」と認定。学校の裏山に避難させず、結果回避義務違反の過失があると判断した。(10月26日毎日新聞

 つい最近も書きましたが、(「後世に伝えたいこと」~今の日本人のすばらしさは、今の日本人がつくってきたこと - カイト・カフェ東日本大震災という大変な災厄の中で、しかし日本人がその実力を明らかにし、世界に発信するとともに翻って自分たち自身がこの国に誇りを持つことができるようになった――そういう意味で、幸いな面もなかったわけではありません。
 特に学校教育のもつ計り知れない実力は、この災害の中でもいかんなく発揮されたといえます。「釜石の奇跡」の例を持ち出すまでもなく、東北各地の学校ではすべて的確な避難が行われ、避難所が開設すると同時に多くの教職員が優秀なスタッフとして運営に当たりました。すべてはマニュアルのない中で、あるいはあっても役に立たない状況で、児童も生徒も教職員も粛々と活動したのです。ただひとつ、石巻市立大川小学校の場合を除いて・・・。

 2011年の3月、私はまず、大川小の被災が報道の俎上に上がってくる遅さに驚きました。
 一校で90名近い児童教職員が死者・行方不明者になっているというのに、そのニュースが取り上げられるようになるのは震災後五日ほど経ってからのことだったからです。
 いかに全体として死者・行方不明者が1万8千人を越え、東日本全域に及ぶ大災害の最中であったとしても、そして、同時に福島第一原発の重大事故が発生していたという事実があったとしても、それはあまりにも遅い動きでした。
 なぜそうなったのか。

 第二の疑問は、――これは保護者が問題とし、今回の裁判でも中心的なテーマとなったものですが――、なぜ教職員・児童は地震発生後50分間に渡ってその場に留まり続けたのかということです。これが全く解せない。

 公務員、殊に教員は基本的に臆病ですから、手を打たずに事態を放置するということが苦手なのです。子どもを前に置くとさらにその傾向は助長されます。“このあたりでいい”ということがない。十二分に手を尽くさないと気が済まない、できもしないことまでやろうとする、それが教員です。にもかかわらず大川小学校では最低限の対応しかとらなかった。

 2011年3月11日午後2時46分、巨大地震石巻を襲って全員が校庭に避難したとき、当然人員点呼を行ってその場にしゃがませた。そのあと大川小学校教職員は何をしたのか。
 教頭がラジオで情報を確認していたという話もあります。しかし教頭だけではないでしょう。教職員の誰かがスマートフォンや携帯をネットにつなげて情報を取ろうとします。ワンセグ対応の場合はニュースを見ようとあれこれします。
 やがて地域の人々もひとりふたりと避難してきます。その人たちとも情報交換をし相談します。ほとんどの場合、教職員は地元の人間ではありませんから地域のことは地域の人に聞くしかありません。このままでいいのか、さらに別の方向へ避難すべきか。そんなふうに話を聞きながら判断します。当然、広報車のラウドスピーカから流れる話にも耳を傾けたはずです。
 津波は確実に来る、しかもかなり大きな津波が………しかし彼らは動かなかった。

 考えられる可能性のひとつは、現場にいた教職員が独自の判断で動くことを許さない有形無形の圧力があった可能性です。
 その日たまたま不在だった校長や市教委の指示がなければ何もできない、何かをしてはいけない雰囲気、あるいは常に地域や保護者と相談しなければ何も決定できない慣習、教職員同士の不和による方針の不統一、そうした可能性はいくらでも考えられます。
 そのほかにも、その日の実質的最高責任者である教頭の無能、校庭に避難してきた地区住民の誰ひとり二次避難場所を考えて移動することがなかったというその場の雰囲気なども可能性のひとつと言えます。
 しかし今となってはすべては闇の中、関係者の大半が亡くなってしまった状況で、掘り起こせることには限りがあります。

 東日本大震災津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校をめぐり、児童23人の遺族が市と県を相手取り
とあるように今回の裁判には参加しなかった遺族が多くあります。不参加の理由は様々ですが、裁判にするほどのことはないと考えたから不参加なのでしょう。その点では一致しています。
 そうした遺族がある以上、裏を返せばこの件は全く裁判にならなかった可能性もあるといえます。学校も10名の教職員を失ったのです。その人たちも家族がいます。ともに大切な人を失った悲しみを共有するという道もあったはずです。しかし提訴した遺族たちは市と県を許さなかった。裁判を起こして明らかければならないことがあると信じた――なぜそうなったのか。

 そこには無能で無責任なひとりの管理職の迷走があったと私は感じています。
 言うまでもなく地震は防げなかった、津波の発生も防げなかった、結果的に84名も尊い命を失ってしまった、しかしそのあとからでもしなければならないことはあったのです。

 詳しくは「毒書収監」→「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」。またそれに続く「学校を災害が襲うとき〜教師たちの3・11」も合わせて読んでいただけるとありがたいと思います。