「失われる学校の観音力」~子どもには学ばない権利も、成長しない権利もある  

日本の教育は不空羂索観音のように、
強制力をもってしても子どもを高めようとしてきた。
しかし平成以降、あまりにも手を広げすぎて教師たちは疲弊し尽くした。
そして子どもたちも、学ぶこと・成長することに、飽きはじめている。
という話。(写真:フォトAC)

不空羂索観音=強制的に人々を救う菩薩】 

 奈良東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)は不思議な菩薩で、羂索と呼ばれる五色の糸をより合わせた縄を持ち、長く細い布を身に帯びています。

 もともと観音は救おうとする人間に対応して変化(へんげ)する菩薩で、その数は六とも七とも、あるいは十五とも三十三とも言われています。不空羂索観音天台宗七観音のひとつで、救いようのない者、救いから逃れようとする者を強制的に救ってしまう観音です。縄と帯で手繰り寄せ、巻き取って極楽浄土へ連れて行こうというのです。

 若いころの私は救いようのない、しかも素直でもない人間でしたので、いつかは不空羂索観音に救ってもらうしかないと考え、期待もしていました。しかしその不空羂索観音からも逃れたい、極楽浄土にはいきたくない、縛られたくないと願う衆生もいるのです。

【観音らしからぬ子どもを救うことへの執着】

 日本の教師は、この不空羂索観音に似ています。学ぶ気のない者、より高い可能性に挑戦しようとしない者たちも、ロープでからめとってでも学ばせよう、成長させようという執念というか情念というか、そういった情熱に囚われながら、日本の学校は運営されてきたのです。
 
 野口英世の担任だった猪苗代高等小学校の小林栄先生や留学生だった魯迅を支えた藤野先生、テレビドラマの金八先生や「ごくせん」のヤンクミらは、みんなそうです。非常に情熱的でお節介、子どもたちの怠惰や逸脱には強圧的で、ときには体を張ってそれらを阻止したりします。
 特に学校に来ない子・来られない子、非行に走る子たちに対する熱心さには、学校で学ばないことへの激しい憎悪があるのではないかと思われるほどです。
 
 教師一人ひとりもそうだったように、政府・文科省も子どもを育てることに異常に熱心で、学校教育の守備範囲を広げてきました。
 考えて見れば小林先生や藤野先生の時代には学校が食事のこと(食育)から健康づくりのこと(体育)、修身を越える道徳や人間関係調整、コンピュータや小学生から学ぶ英語、あるいは将来設計(キャリア教育)から性の問題、そういったこと全面的に取り上げて指導しようという雰囲気はまるでありませんでした。
 ところがここ三十年あまりの間に、子どもの成長について全面的にかかわりましょう、責任を負いましょうという態度が、急速に高まってきたものです。もちろんその背景には、世論と国民の要求がありました。

【失われる学校の観音力】

 そのいちいちに応えてきた結果、学校は身動きが取れなくなり、文科行政は行き詰まりました。子どもや家庭の方も生活全般に口出しされることに倦み、学校の強圧的な手法に拒否反応を起こし始めています。
 
 教育の不空羂索観音は手を広げすぎました。もはや何が何でも子どもを高めよう、成長させようという時代ではないのです。子どもには勉強をしない権利も、道を逸れる権利もあるのだと、人々は思うようになっているのです。意識しているわけではありませんが、もう好き勝手でいいじゃないかと考え始めているのです。