「白鳥の歌」〜美しい死に際だった娘の恩人の話

 だいぶ以前の話ですが、とてもお世話になった方が亡くなったのを知らずに半年もたってしまい、とても切なく残念な思いをしたことがあります。以来毎朝、新聞の死亡広告、いわゆるお悔やみ欄を必ず読むようにしています。
 そのお悔やみ欄、先日の日曜日の朝、目を通していたら意外な人の名前を発見しました。それは娘のシーナが2歳から4歳の時期に面倒を見てもらっていた人です。

 今では子育て支援もだいぶ充実してきましたが、20年前はまだまだその黎明期で不十分な面も少なくありませんでした。例えばシーナの場合、私は朝7時15分からの部活に同行させ、8時の終了とともに学校の目の前にあった保育園の早朝保育に入れ、学校の職員朝会に間に合うように戻る生活を3年間続けなければなりませんでした。
 夕方は6時までが延長保育なのですが、その6時に妻が間に合わない。そこで7時までの時間をお願いしたのが、保育園の臨時保育士ですぐ近所に住む“その方”だったのです。
 のちに私たちは転勤で地元の町にもどり、以来20年、盆暮れの挨拶と年賀状、そして数年に1回程度の訪問といったお付き合いしか行ってきませんでした。恩知らずな話です。それなのにシーナの結婚の際にはずいぶん喜んでくれて、真っ先にお祝いをくれたりしました。
 享年74歳ですから現在の基準から計ればまだまだ若い年齢です。2年前からご病気だったそうですが、私たちはまったく知りませんでした。

 お悔やみ欄で知った私たちは、その日の午後、車で1時間ほどのご自宅に慌てて駆けつけます。“その方”は部屋の奥で静かに眠っておられました。始末に困るほど豊かだった髪はずいぶん薄くなっていました。それは抗がん剤のせいで、本人も切ながっていたとお嬢さんに教えていただきました。
 ひとしきり昔話をしてずいぶん泣いたあと、お嬢さんが奥の部屋から大きな紙袋を持って来られます。
「(私が死んで)Tさんがお見えになったらこれを渡すように、もしお見えにならなかったら送るようにと母から預かりました」
 中にはあったのはその方の作ったレース編みの花瓶敷で、額に入れられたものです。手芸に堪能な方でした。手紙が添えられていて、読むと穏やかな言葉で、感謝と別れが告げられています。
「送るに困らないように、宅配の送り状までつけてくれました」
 お嬢さんに見せられたそれは、送り主の欄にその方自身の名前が書かれています。盆暮れの挨拶の際は常にご主人の名前で来ましたから、本人の名で書かれたものはそれが最初で最後の送り状になりました。

 ヨーロッパには白鳥は最期の瞬間にもっとも美しい声で歌うとの伝説があり、そこから辞世や芸術家の最後の作品を「白鳥の歌」と呼ぶのだそうです。
 私たちが会いに行った“その方”は決して偉大な方でも大きな業績を残した人でもありません。しかし亡くなる直前まで、身辺を整理し、伝えるべき言葉を残し、あとを清め、そして旅立たれたのです。
 私もいい年です。死ぬときはかくありたいと、つくづく思いました。