「人権教育旬間」⑤ 〜問題への取り組みⅰ

 いじめ問題において加害者があれほどまでに残酷になれるのは、いじめる側に被害者意識がある(攻撃を受けた、いやなことを言われた、仕事を押しつけられた、足を引っ張られた・・・)からだ、というのが先週の話の最後でした。
 いやな思いをさせられて傷ついた心は、「相手も同じように傷つくべきだ」という意識を生み出す、暴力は悪いことだとわかっているが、口で言ってもわからない、何度言っても改善が見られないとなれば、多少の暴力やいやがらせも仕方ないと思い始める、そんな話です。

 被害者意識はまさに“意識”ですから、金銭や時間のように定量的にはかることはできません。したがって被害の大きさは極めて主観的なものになります。たとえば「挨拶をしたのに無視されたのでみんなで押しかけて殴った」といった事件は、客観的には罪と罰が著しく不均衡ですが、主観的にはイーブンなのです。そのくらい、加害者の受けた傷は大きかったのです。

「いじめで、いじめられる側にも責任があるという人もいるがそんなことはない。いじめは100%いじめる方が悪い」そんな言い方があります。
 たしかに“いじめ事件”を解決しようとしている最中に「いじめられる側にも責任がある(だから直せ、あるいは容赦しろ)」と言ったのでは、被害者に気の毒ですし加害者には無用な支持を与えることになりかねません。
 しかし人間関係において100対0で一方だけが悪いというケースはそうはありません。通り魔殺人や交通事故ではないのです。文科省の“いじめの定義”が「一定の人間関係のある者から」と言っている以上、そこには100対0では済まない何かがあったはずです。

 盗人にも三分の理と言いますが加害者にもそれなりの理屈があり、極めて主観的で身勝手なものであるにしろ彼らは“(彼らなりの)正義”に則って行ったのかもしれない―そうした可能性を無視した指導は、指導でなくなる危険性があります。
 加害者の心の中にある“正義”を見つめ、その中から被害者意識をあぶり出して最終的には治療する、そうした過程ないといじめ問題の最終的な解決はないのです。

 いったん始まったいじめは解決するのが非常に困難です。割って入ろうとすると必ず被害者側と見られて身動きできなくなってしまいます。したがっていじめを始めさせないことが最重要となりますが、その際のポイントが「被害者意識を持ちやすい児童生徒の指導」ということになります。恵まれない子の指導と言い換えても同じです。

 学校によく順応し、生き生きと前向きに生きる子がいじめの加害者になることはありません。そもそも学業やスポーツに忙しく、そんなことをしている暇もないのです。いじめをする子は皆、恵まれない子です。自業自得の場合があるにしても、まだ子どもですからそうした事実を受け入れだけの力はまだありません。

 したがって私たちはそうした子どもの不幸に心を寄せ、そうであるにもかかわらず別の子の不幸も背負って歩けることを教えなくてはなりません。攻撃を受けたり嫌なことを言われたり仕事を押し付けられたりしても、平気で笑って対応できる子に育てなくてはならないのです。人生は楽しくかけがえのないものであって、生きるに値する、そうしたことを教えるのです。
 それがうまく行けば、クラスにいじめ事件が起こる余地はなくなります。

 しかしそれにもかかわらず指導がうまく行かず、あるいは指導が完結する前に、重大ないじめ事件が発生してしまう場合があります。その時はどうすればよいのか。
 それが次のテーマです。

                         (この稿、続きます)