カイト・カフェ

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「人権教育旬間」④ 〜被害者意識

 1994(平成6)年に起った通称「愛知・大河内清輝君いじめ自殺事件」では、清輝君自身がかなり長い遺書を残しています。その一部。

 何で奴らのいいなりになったか?それは川でのできごとがきっかけ。川につれていかれて、何をするかと思ったら、いきなり、顔をドボン。とても苦しいので、手をギュッとひねった。助けをあげたら、また、ドボン。こんなことが4回ぐらいあった。特にひどかったのが矢作川。深い所は水深5〜6mはありそう。図1(※略)みたいになっている。ここでAにつれていかれて、おぼれさせられて矢印の方向へ泳いで逃げたら、足をつかまれてまた、ドボン。しかも足がつかないから、とても恐怖をかんじた。それ以来、残念でしたが、いいなりになりました。

 いじめ自殺と呼ばれる事件の記事やルポルタージュを読んでいて、常に不思議なのは子どもたちはなぜこうも残酷になれるのか、という点です。相手はハエやカではないのです。猫やウサギでもこんな仕打ちはできないのが普通です。それを中学2年にもなった人間が、人間に対してできるのです。これが正常な人間のすることなのでしょうか?

 これについてもっとも納得できる説明をしてくれたのは、高垣忠一郎『登校拒否・不登校をめぐって』(青木書店、1991)でした。
「しかし高学年にもなってくれば、自己客観視に必要な認識面での能力は、それなりに発達してきているはずであり、それができないとなれば、自己客観視を困難にする他の要因を考えねばならない。そのような要因の一つとして考えられるのは、被害者意識である。いじめる側の心のすみにでも被害者意識があれば、それが邪魔をして、自己の加害者としての立場に気づかせないことが往々にしてある」

 大河内君の事件では加害者側の発言がほとんど採集されていないので分かりませんが、「葬式ごっこ」の鹿川君の場合は分かります。加害者の中の被害者意識は鹿川君が不良グループから足抜けしようとしたこと、そして彼のお父さんが加害者宅に怒鳴り込んできたことによって膨張します。いずれも被害者サイドから見れば当然のことですが、加害者は傷ついたのです。
 楽しいときは一緒に過ごしながら、いざとなると“良い子”に戻るのは許しがたい裏切りです。

 いわゆる「グズ」や「のろま」が標的にされるのは、彼らが学校の集団活動においてしばしば後の加害者たちに迷惑をかけるからです。この人たちと同じ委員会になったり係になったりすると大変なのです。人と違った子、集団生活から外れてしまう子もおなじで、集団の統一性を守るための努力を惜しみ、自分だけが楽をしようとしています(と、加害者たちは考える)。

 誰かから直接的な被害を受けた(攻撃を受けた、いやなことを言われた、仕事を押しつけられた、足を引っ張られた・・・)といった思いは、「相手も同じように傷つくべきだ」という意識を生み出します。もちろん暴力は悪いことですが、口で言ってもわからない何度言っても改善が見られないとなれば、多少の暴力やいやがらせも仕方ないと思い始めます。

 こうした事情を背景として、「自分は被害者だ」と意識する子たちの中から、あるいはその子の痛みを代弁する形で、加害者は現われてくるのです。もちろんその被害者意識はわがままで歪んだものなのですが。

(この稿、来週も続きます)