「加害者はいかにして加害者となっていくのか」①〜マイレジューム

 30年ほど以前に私のクラスで起こった、学級全体を巻き込むようないじめ事件はもう起きないことになっています。当時、学級は担任が責任をもって統率すべき場で、ほかの教員は入るのを遠慮したのです。しかし今はそうではありません。何か重大な問題があれば多くの教員がクラスにワッと入ることになっています。集団指導の時代なのです。
「最近のいじめは、以前よりずっと陰湿になった」といかにも状況が悪くなったかのような言い方のされる場合がありますが、そうではなく、表立った問題に早い段階で指導の手が入るので、いじめの規模は小さくなり、かつ沈潜せざるを得なくなったのです。ただし教師から見えなくなった分、手口が残酷になったという可能性もないわけではありません。また公共の場から消えてしまうということは支える目も少なくなることですから、被害者の孤独感も深いということもあるかもしれません。そうであるにしても、状況は以前よりずっと良くなっています。
 今後(というかすでにだいぶ以前からそうなっているのですが)問題になるのは、比較的閉鎖的な小グループ内で行われる「いじめ」です。閉鎖的なグループですから情報が洩れてきません。小グループですから動きが速く、教師たちに目をすり抜けてしまいます。

 通常、「いじめ自殺」と呼ばれるような重大事件でも、加害者がどういう子どもだとか実際に何が行われたとかが詳しく報道されることはありません。被害者本人が亡くなっているため事実確認が難しいということもありますし、情報を採取できるが学校だけという事情もあります。しかし何といっても“加害者”も未成年ですからこれを守らなければならないという動きが学校にも警察にもそしてマスメディアにも生まれるからです。
 例えば先日(2015.11.01)に名古屋で鉄道自殺した中1男子生徒の例では、
『複数回答で「本人から聞いたり相談を受けたりした」は3人。「本人以外の人から聞いた」は57人いた。のべ80人が見聞きしたいじめの内訳は「冷やかし、悪口、脅し文句など」が54人と最も多く、「嫌なこと、危険なことをさせられた」が32人、「仲間はずれ、集団による無視」が11人と続いた』
と、ここまでがマスコミに載るだけです。
 “加害者”が一人なのか二人以上なのか、クラスでも部活でもいじめられていたということなのか、教室と部活という二つの場で同じ相手にやられていたのか違う子なのか、そしてそれが死を考えなければならないほど過酷なものだったのか、そうしたことは一切分かりません。
 これまで「いじめ自殺」と呼ばれた事件の多くがそうであったように、「名古屋市中1自殺事件」の真相は、今後も私たちの目にさらされることはありません。おそらくそうなるでしょう。
 しかしその中にあって、今年2月に起ったいわゆる「川崎市中1男子生徒殺害事件」は、週刊誌が実名報道に踏み切るなど、加害者について比較的詳しく報道され、事件の概要も広く知られたという点で珍しいものでした。何といっても「殺人事件」ですし、加害者もはっきりしていれば殺害事実も動かしがたいものだからです。
 ただし被害者の生徒が暴力に耐えかねて1日でも早く自殺していれば、「いじめ自殺事件」として内容の多くが伏されたたまま消えた可能性のある事件です。「ともに死に追いやられた」という意味では同じなのに、「殺害事件」の表題で記されるこの事件、加害者がどのようにして加害者になっていくか、それがよくわかる事例として私は興味を持っています。

(この稿、続く)