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「人権教育旬間」⑥ 〜問題への取り組みⅱ

 盗人にも三分の理と言いますが加害者にもそれなりの理屈があり、極めて主観的で身勝手なものであるにしろ、彼らは“(彼らなりの)正義”に則って行ったのかもしれない―そうした可能性を無視した指導は、指導でなくなる危険性があります。
 昨日の一文です。

 いじめ問題の指導が困難なのは、多くの場合、加害者の内に主観的な正義があり、その奥には被害者意識があるためです。そうしたものの全くない“いじめ”の指導は難しくありません。なぜなら加害者は自分が悪いことを知っているからです。

 では被害者意識があり、正義を振りかざしている場合はどういった指導が可能なのでしょう? それには彼らが負った被害と、彼らの行っている加害の著しい不均衡を、まざまざと見せつけるしかありません。
 それは事実確認という形で行います。

 怒ったり「お前のやったことはこういうことだぞ!」と怒鳴ったりする必要はありません。ただ淡々と、いつ、誰が、何を、どのように行ったのか、誰が何と言い、それがどういう発言に結び付いて結局何が起こったのか、そしてどうなったのか、そういったことを延々と聞いて書き留めていくのです。一連のストーリーが、聞いている私たちの脳裏にまざまざと映像として浮かび、「ああそういうことなら、確かに起こりえるな」と納得できるまで煮詰めていくのです。

 それは客観的な立場にいる私たちが事態を理解するプロセスであるとともに、主観的な言い訳をたくさん持っている加害者たちが、自分の行為を客観的なものに組み替えるプロセスでもあるのです。別な言い方をすれば、自分たちの行為を映像のように見ることで、己の罪深さを思い知る過程ともいえます。

 原因を聞いてはいけません。そこには山ほどの言い訳や説明があるからです。また“加害者”が複数いる場合は人数分の教員を用意して、同時並行で指導しなくてはなりません。せっかく一人を「思い知らせて」も、他がそのまま変化していなければあっという間に戻されてしまうからです。それに、指導は時間がかかりますから、担任一人ひとりやっていたのでは、あっという間に一週間二週間は過ぎてしまいます。それでは遅すぎます。

 いじめ問題はじっくり時間をかけ、丁寧に取り扱うべき課題ではありません。
 短時間に大量の人間とエネルギーを投入し、一気呵成に解決してしまうべきテーマです。そうしないと必ず長引き、修復不能に陥ります。

                      (この稿はこれで終わります)