夏休みに家で考えたこと�C〜いじめ

 尾木直樹という人はまったく好きになれないのですが、一か月ほど以前、新聞紙上で非常に良いことを言っていました。それは、

「加害者の親と話すとき、“いじめ”という言葉を使ってはいけない。ウチの子が“いじめた”と言われると親は絶対に認めない」

といったことです。

 大津の事件でも最初の保護者会で“加害者”の親はこんなことを言っていました。

「ただ、遺書もなく亡くなった友人を、生前いじめていたとの判定を学校側に下されることは、『■■■(氏名、伏字)の死因の一つを作った人間』との烙印を押されることとほぼ等しく世間では認識されると思われます」(2011.11.1の保護者会前に配布された文書とされるもの)

 これは言葉の持つ一種の魔力の問題であって、

「A君はY君たちからの執拗ないじめに合って自殺した」

というのと、

「A君はY君たちから執拗な恐喝と暴力に合って自殺した」

とでは全く異なった印象になるからです。

 後者だと「なぜ親や教師に相談しなかったのか」とか「黙っていた方にも責任はあるだろう」、あるいは「恐喝や暴力くらいで死ぬことはないだろう」とかいった感想を持つ人間は、必ず現れます。しかし前者だとそうはならない。

 逆に「自殺するほどだからよほどのことをされていたに違いない」という方向にしか心は動かないのです。

 最初の尾木のアドバイスに戻れば、「お宅のお子さんは“いじめの加害者”です」と言われればそれは「お宅の子は理由もなく友だちを追いつめ、自殺にさえ追い込みかねないモンスターです」と言われているのと同じですからどうしても認めがたい。それが「お宅の子は、友だちに暴力を振い、繰り返し恐喝をした“加害者”です」と言われると、確かに気分のいいものではありませんが“モンスター”ではなくなる。通常のありふれた非行で、面倒くさく厄介ではあるがどこかに解決の糸口がある、と感じられます。

 被害者の立場から考えてもこれは理解できます。

 自分が受けたのは暴力と恐喝だと言われるとなんとなく被害が矮小化されたような気になります。その言い方だと自分の受けた心の傷や悲しみが切り捨てられたような感じなる。やはり“いじめ”という言葉を使ってこそしっくりくる、そんな感じです。

 世の中のいじめ問題がやたら難しくなるのは、つまりはこの“いじめ”という言葉の曖昧さと、曖昧だからこそ纏っている大量の意味やニュアンスのためです。また曖昧であるが故に加害者と被害者、学校、市町村教委、マスメディア、世論はまったく噛みあっていきません。

 そう考えると“いじめ”という言葉を極力使わないようにすることが、問題解決の大きなポイントとなってくることが分かります。

“被害者”には、

「一つひとつの問題について認めさせ、謝罪させましょう。“いじめ”を認めさせようとすれば絶対に受け入れてくれません。将来、警察に入ってもらう可能性を考えても、傷害とか恐喝といった刑法上の言葉を使って調査・究明をした方が有利です」

 そう言って受け入れてもらうしかありません。

 私は校長がうっかり「文科省の定義にしたがえば、“いじめ”と認めざるを得ません」と言ったばかりに、問題がまったく動かなくなってしまった“いじめ”の事例を経験したことがあります。