残酷な正義について

 どういう設問だったのかどうしても思い出せないのですが、たぶん「1333年は何世紀でしょうか」といったような問題だったと思います(ただしそこまでマヌケな問題ではなかったはずですが)。

 授業の空き時間に採点していると、ある生徒の答えが「B」だったのです。前後を見ても選択問題はなく、なぜ「B」と書いたのかさっぱり分からないので休み時間にその子を呼んで訊ねてみました。すると生徒は「やーだ先生『13』、『13』って書いたのに・・・」とのことでした。1と3をくっつけ過ぎていたので「B」に見えたのです。

 もちろん答えは14世紀ですので「×」でかまわないのですが、もし答えが13世紀であった場合、事情を聞いて納得した私は「B」に見える「13」を正解にしてもよいのでしょうか。もしかしたら他のクラスでもそっくりなことが起こり、そちらの子の教科担任は不思議とも思わず、「×」にしているかもしれないのです。

 他の教科も似たり寄ったりなのかもしれませんが、テストの採点というのは世間で考えるほど簡単ではありません。例えば「墾田永年私財の法」が正答の場合、次の回答はどう判断すればよいのか。

「こんでんえいねんしざいのほう」

「こん田永年私財の法」

田永年私財の法」

「墾田永年私財の

「三世一身の法」

そして無回答。

「三世一身の法」と無回答が「×」なのは当たり前ですが、「田永年私財の法」はやっかいです。「墾田」などという、非日常的で国語でも習っていない字を一生懸命覚えたつもりで、しかし間違ってしまった、その子の答えを無碍に「×」にしていいものか。しかしこれを「△」として部分点をあげたとすると、当然「墾田永年私財の」も「△」をくれと言ってきます。しかし「法」を「方」と書くのは「墾」を「懇」と書き間違えるのとでは意味が違います。それが法律だと分かってないということだからです。

 さらに「こん田永年私財の法」は“どこも間違っていない”という意味では正答ですが、これに「○」をしてしまえば苦労して漢字を覚えてきた子は浮かばれません。「こんでんえいねんしざいのほう」となるとほとんど殺意を覚えます。しかしその子とて、この難しい言葉を一生懸命暗記してきたには違いありません。

 この難しい問題をクリアする方法は二つしかありません。

 ひとつはすべての回答に採点基準をつくることです。子どもの発想はユニークで何が出てくるかわかりませんから、前もって基準表を用意することはできないでしょう。ですからすべての採点が終わったところで教科担任が集まり、一つひとつを検討の上、正答は5点、全部ひらがなは2点、漢字一字のひらがなあるいは誤字は3点といった具合にそろえるのです。しかしそれをしたからと言って、「全部ひらがなは正答の6割引き」に論理的な説明ができるわけでもありません。「墾」の間違いは―2点、「法」の間違いは―3点と言っても納得させるのは厄介です。

 もう一つの方法は何かというと「必要な漢字を使った正しい答え以外はすべて『×』にする」と最初から宣言してその通りにしてしまえばいいのです。「墾田永年私財の法」以外はすべて「×」―そうすれば公平性は保たれ、一片の揺らぎもなくなります。

 しかしそれでいいのでしょうか。

 そんなやり方は教育ではありません。“情”がなさすぎます。

 実は採点の揺らぎというのはほとんどが“情”によって生み出されています。教師の「一点でもでも多く取らせたい」という願いが、採点基準を揺るがせるのです。以前は「そうした揺らぎは、全体としてはすべての子どもに平等に訪れる」という擬制のもとに許されていました。今回は訪れなくてもいつかは来る、ということです。

 しかし現代はそういうことも許されません。“優しい不正”よりも“残酷な正義”の方が重んじられるのです。

 学校は冷徹な執行機関となりつつあります。