カイト・カフェ

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「アウフヘーベン」〜遅れてきた人々の夢想

 小池百合子という人はどうも日本語に難があるみたいで、ときどきとんでもないところに難しい英語を差し挟んで私たちを混乱させます。
 ただしおそらくそれで相手を煙に巻こうとしているとか教養をひけらかしているとかではなく、ものを考えるときいつも英語が頭の中を渦巻いていて、それをいちいち日本語に変換するのが面倒だったり、“その概念は日本語にできないから”と単純に突っぱねているだけのかもしれません。
 確かに「コンピュータのキーボードをブルートゥース仕様にしたりマウスをトラックボールに変更することで・・・」を英語を使わずにやれと言ったって不可能ですが、「ホイッスルブロワー(内部告発者・公益通報者)」だの「ワイズスペンディング(税の有効活用)」だのを日本語にしないのは怠慢としか言いようがありません。

 一方「カイロ・アメリカン大学でアラビア語を修めカイロ大学に移って卒業した」(Wikipedia)はずなのに会話にアラビア語が挟まることはない。何年もエジプトに住みながら頭の中は日本語と英語だったということもないでしょう。
 もちろんアラビア語を挟んだら誰も分からないという事情もありますが、それだったらあまり一般的でない英単語だって同じでしょう。
 そして今度はドイツ語です。

アウフヘーベン」と聞いて「バームクーヘン」から頭を逸らすのに苦労している人は大勢いるのではないでしょうか(もちろん冗談です)。
 ところがこの「アウフヘーベン」、私より上の世代(さらに正確に言えば全共闘世代)にとっては、ほとんど日常語だったのです。「アウフヘーベン」と聞いて懐かしく思う人はたくさんいても首を傾げるひとはまずいません。

 それがどういう意味かというと、私もよく分からないのですが全共闘的な意味では次のようになろうかと思います。
(かなり低レベルの理解ですがこれに対する抗議、および訂正は受け付けません。指摘いただいてもたぶん理解できませんから)

アウフヘーベン止揚:しよう)】

 最初に「弁証法」について(改めて調べながら)お話しします。これは物事の考え方(小池さんの好きな言葉で言うとパラダイム)のひとつで、
『物事は必ず内部に矛盾する二つのものを生み出し、ひとつを「正」(命題・テーゼ)とするともうひとつを「反」(反命題・アンチテーゼ)と名付けることができる。この二つはどちらは正しいとか重みがあるとかいったものではなく、等価であり矛盾しあう。その矛盾はやがて限界まで高まり、その結果さらに高い立場である「合」(ジンテーゼ)を生み出して解消する』
 その“高い立場で統合(あるいは総合)する”作用を「アウフヘーベン」と言うのです。
 何のことか分からないでしょう?

 全共闘学生が好んで引用したヘーゲルは、「歴史」を弁証法の大きな繰り返しと考えましたから、その線にそって考えます。すると例えば、
 1300年ほど前に始まった律令制は「すべての国民と土地を天皇のものとし(公地公民)」「田を分けて貸し与えることで税を徴収する(班田収授)」ものだったが、国が安定して人口が増えるに合わせて土地を増やすことができなくなった。つまり矛盾が生じた。
 その矛盾を「墾田永年私財法」によって土地の私有を認めることでアウフヘーベンし、農地は爆発的に増えて国は安定に向かう。
 ところが自分が耕作できる以上の大量の土地を所有する者たちが現れ、彼らはさらに土地を広げようと武器を手にし始める(武士の誕生)。そこに「土地所有者(貴族・寺社)」と「土地を実効支配しかつ耕作する者(武士)」という矛盾が生まれ、対立は極限まで進む。
 それをアウフヘーベンして武家社会が生まれ、再び国家は安定に向かう。ところが・・・と延々と続く弁証法が歴史だ。
という言い方になるのです。

 全共闘の学生たちがこの言葉を盛んに使ったのは、
「資本主義の矛盾はやがて極限まで高まってその結果アウフヘーベンして社会主義国家が生まれる。ただし自然に任せた社会主義への移行は制御の効かない残酷な変化となり、それでは犠牲が大きすぎるからソビエト連邦の指導の下、自分たちが制御可能な形での社会主義革命を起こす」
 そういう考えがあったからです。
 だから彼らは盛んに「テーゼ」だの「アンチテーゼ」だの、あるいは「アウフヘーベン」だのといった言葉を使いました。

「テーゼ」と聞いてヘーゲルマルクスを思い出すのが全共闘世代。エヴァンゲリオンを思い出すのがアニメ世代です。
(「残酷な天使のテーゼ」の作詞者の及川眠子さんは1960年の早生まれですから全共闘運動にはまったく間に合っていません。ただし彼女が大人になろうとする多感な時代、世間にはまだ学生運動の残り香はあったはずです)

【さて、築地・豊洲だ】

 では小池百合子都知事は「アウフヘーベン」をどう使っているのかというと、次のような文脈です。(月刊「文芸春秋」2017年7月号p120上段)
 豊洲市場の盛り土問題の改善案は、提案する専門家会議の紛糾で、立ち止まっている。一方、築地市場の改修案も市場間題PTから出され、百花繚乱の様相を呈しているが、ここはアウフヘーベンすることだ。2020年のフロン規制強化もにらみつつ、豊洲市場コールドチェーン拠点、築地ブランドを生かした賑わいのある市場創りなども参考に、鳥の目で総合的な判断を下したい。
 おそらく、
「築地か豊洲かということではなく、そうした二者択一を越えた高次の解決策を模索べきだ」
といった話のようです。
 これだけああだこうだいった後でまだそれを上回る(ほとんどの関係者が納得するような)アイデアがあるとはとても思えないのですがいかがでしょう。

 小池都知事は私と一歳違いのいわゆる「遅れて来た世代」「ポスト全共闘」です。ドイツ語や英語をカッコウよく使いこなす革命的な先輩にあこがれて高校時代を送り、大学に入ったら(関西学院大学社会学部にいったん入学しています)そこには何もなかった――そういう世代です。彼女の精神的な時間はその段階で止まっているのかもしれません。
 そう言えば彼女の愛読書は山本七平の『「空気」の研究』(文藝春秋、1977年)。私も相当に感化され愛した書籍です。