カイト・カフェ

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「もっとテレビを見なくちゃダメだ!!」~社会科に強い子どもを育てる法

 もっとテレビを見なくちゃダメだ
 お母さん 子どもと一緒にテレビを見ましょう
 そうすれば社会科に強い子になれる

 と 熱心に掻き口説いた時期がある
 しかし自分の子はダメだった

という話。

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【かつての教え子が覚えていたこと】

 今月4日の記事に同窓会に招かれた話をしました。

kite-cafe.hatenablog.com 

 その際、子どもたち(今は十分な大人ですが)は案外、教師の話をよく覚えているものだというようなことを書きました。その“覚えていたこと”のひとつで、前回お話ししなかったことがあります。次のような話です。

「先生、テレビのそばに地図と年表と辞書を置いていつでも見られるようにしておけって言ったでしょ? それを私、実践してて娘にガンガン勉強させているの!」
 
 大人になってから我が子にガンガンやらせろという話ではなく、本人にそうしろと言ったのですが、何か悪用されたような気分です。しかし確かにそれは私の言いそうなことで、たぶんこんな言い方をしたのだと思います。

 

【もっとしっかりテレビを見ろと教える】

「オマエたちは親から『テレビばっかり見ていないで勉強しろ』なんて言われているかもしれないが、オレに言わせればまだまだ見たりない。オマエたちがしているのはテレビを“眺める”ことで、本当に“見ている”時間はこれっぽっちもないはずだ。

 見るってのはなァ、テレビの前に机を置いてきちんと正座で対面するところから始まるんだ。机の左には地図帳と歴史年表そして辞書、左上の方に地球儀、右手前にはメモ帳と筆記用具、それだけ用意していつでも調べられるだけの気合と集中力でじっと画面を見つめる、そして地名が出てきたらすぐに地球儀か地図帳、歴史が出てきたら年表、分かったこと、疑問に思ったことはメモ!

 話題が次に進むまでに全部ができればいいがテレビは待ってくれない。だからメモまでは辿りつかないかもしれないが、気合さえあれば疑問は頭の中に残る。そして番組が終わったら忘れないうちに頭の中のものを紙に写しておけばいいのだ。

 記憶の整理は、まあ15分もあればいいから、1時間番組の視聴には1時間15分かける――それが “テレビを見る”ってことだ。
 どうだァ?
 お前たちにはこれからどんどんテレビを見てもらいたい。ただし眺めているなよ! コタツで横になって、ぼーっと口あけて鼻ほじってんじゃねぇぞ~」

 

【保護者にもきちんと啓蒙】

 保護者に対してはそんな品のない言い方はできないので、懇談会の折など、「ウチの子は社会科が苦手で・・・」とか言われると同じことをもっと丁寧にお話ししました。

「社会科というのは厄介な教科で、無意識に前提にしてしまう知識が多すぎるのです。例えば歴史で『国司』なんていうのが出てくると、私たちはついうっかりと『今で言う県知事みたいなものだ』なんていう言い方をしてしまいますが、『県知事』がしっかり分かっている子は案外少ない。『県』という概念すら分かっているかどうか疑わしいのです。
『キミは何県の生まれ?』と訊けばすぐに答えられるのに、直後に『じゃあ県立図書館って誰が建てたの?』って質問すると頭のいい子はかえって混乱する、そんなものです。
 しかし県知事がなんだかきちんと分かっている子には『国司は県知事みたいなもんだ』で十分です。すんなり頭に入ります。

 地理でも『オーストラリア』と訊いただけで、サンタクロースがサーフィンする奇妙な映像が浮かぶような子は、放っておいても我々の住んでいる場所とは夏冬逆転している日豪の違いを理解するでしょう。
 つまりそうした“私たちが無意識に前提としてしまう”ような知識をたくさん持っている子が強いのです。

 家庭でもお父さんが大河ドラマが好きで子どもたちもなんとなく一緒に見ているとか、夫婦の会話に「ちょっとォ、最近は円安なの? またガソリンが上がったじゃない」「いや中東情勢がまたちょっと不安定なんだ」なんていう話が出てくるようだと、子どもたちが自然に学ぶことは多くなります。
 
 ですからせめて居間のすぐ手の届くところに辞書と歴史年表を置き、壁には日本地図を張って、テレビの上には地球儀を置きましょう。それだけでも違うはずです」
 そんなふうに話したものです。もちろんテレビの上に物が置けた時代の話です。

 

【恥ずかしながら我が家の場合――】

 ただし最初に紹介した元教え子には申し訳ないのですが、その話をした時期、まだ娘のシーナは3才で息子のアキュラに至っては湯気の出ているような赤ん坊でした。つまり私が実際に試したわけではないのです。

 後年、ほぼ生徒や保護者に言ったとおりのことを自分の子たちにもしました。しかしその結果は前に申し上げた通り、あまり芳しいものではありませんでした。

 中学校3年生になったシーナは私に「吉田マツカゲ(松陰)って誰だっけ」などと訊きますし、アキュラに至っては「鎌倉時代、将軍に次ぐ役職はコウマルケン」などと平気で言います。「コウマルケン」が何か分からないのでノートを見たら、「執権」の字が横に間伸びして「幸丸権」になっていてそれを覚えたのです。
 何が悪かったのか――。

 

【要するにモノなんて置いただけではダメ】

 夫婦でなんとか夜7時までには帰宅し家族で夕食を食べることはしましたが、そこからは戦闘状態。二人で台所や洗濯物やらの後始末を分担して行い、入浴し、子どもたちに明日の用意をさせて私は9時に子どもと一緒に眠る(午前3時に起きて仕事)。妻はそこから洗濯やら朝の食事の準備やらをしてそのあと持ち帰り仕事。そういう生活をずっと続けてしまったのです。

 ほんとうは宿題を見てやったり一緒にテレビを見たり、どうでもいい会話を楽しんだりふざけたり、そうした中で子どもたちの知らないことは教えてやり、私も分からないことは一緒に調べる。夫婦の間でも「最近は円安なの?」みたいな話ができる、そうした余裕がないとモノなんていくら置いても役に立たないのです。
 
 こうして振り返ってみると、豊かになるはずだった子どもとの時間を、無下に捨てて来てしまったものです。

 教員夫婦に限らず、どこの家庭でもお父さんお母さんも忙しいのです。だから無理な注文かもしれませんが時間さえ確保できれば、地球儀だとか年表だとかも使って、情緒豊かで知識の深い子どもを育てる可能性はずっと高いように思うのですが。