カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「マウンティング」~昔の教師がアテにした子弟の関係確認

 少し古くなった話ですが(この国の政府は次々と問題を起こすので一週間前の話もすぐに“古く”なってしまう)、松本復興大臣が知事たちに対する「暴言」で、就任後わずかで大臣を辞任するということがありました。

 これについて内田樹というエッセイエスト(大学教授)は、こんなことを言っています。
「傲慢不遜だから辞めなければならないのではない。松本前大臣がやったのはゴリラやサルのマウンティングと同じで、どちらがボスか、より力のあるのは誰か、と問い詰め、知事を能力の低い者として認めさせようとしたからだ。しかし自分はダメだ、自分が子分だと認めることで力を発揮する者はいない。国と地方が手を携え、最大のパフォーマンスを発揮しなければならないときに、敢えて自分の優位性を確保し知事の能力を低めようとした、全体の力をそぐようなことをした、だから辞めなければならないのだ」(大意)

 マウンティングはゴリラやサルがしばしば行う行為で、弱者が尻を向け強者が相手の背中に乗るという上下関係の確認です。これは人間とサルの間でも可能で、サル回しの訓練の一番最初に行われるのは、曲芸師がサルの肩に噛み付き、どちらがボスかを徹底して教えることだと言います。

 内田は続けて
「教師として私は、若者たちに『知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感』をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。
 その感覚の「尻尾」だけでもつかめれば、それから後は彼ら彼女らの自学自習に任せればいい。
 いったん自学自習のスイッチが入ったら、教師にはもうする仕事はほとんどない」
と言います。

 確かにそうです。しかしそう言えるのは相手が大学生だからであって、小中学生にも同じことが言えるかどうかは疑問です。なぜならそもそも大学生は好きな勉強しかしていない、文学部の学生は数学や物理学なんかやらずに、文学と周辺学問だけをやっていればいいからです。

 小中学生は死ぬほど嫌いでも国語や理科をやらないわけにはいきません。その死ぬほど嫌いな国語や理科が少しでも好きになったり楽になったりするためには、多少の工夫が必要です。
 それは教師の言うことを聞き、まずは我慢してやってみるということです。

 レディ・ガガはナイトクラブで歌っているとき、客たちが誰も歌を聞かずおしゃべりに興じている様子に腹を立て、ドレスを脱ぎ捨てて下着姿で演奏したといいます。すると初めて場内は静かになり、彼女の歌は広がり、その才能が見出されます。聞いてもらわなければ何も始まらないのです。
 同じように、教師がどんな素晴らしい(面白い、ドキドキする、興味深い)話をしたり実験をしたりしたところで、聞いてくれなければ自学自習どころではありません。

 思えば昔の学校にはさまざまなマウンティングの仕組みがありました。教壇があってそこから見下ろしているだけでも上下関係は自ずと明らかになります。教師に呼び捨ての権利があって生徒にはない、時には根性棒で生徒をしばく! しかし何と言っても有効だったのは、松本前復興大臣と同じ口調で教師はしゃべっていたということです(日々マウンティング)。

 いつも言いますが、そうした時代が懐かしいとかそうした時代に戻ればいい、一部でも復活させるべきだと言っているのではありません。
 そうした仕組みを一切失ってもなお、児童生徒を教え導くことのできる現在の教師はほんとうに素晴らしい(そしてたいへんだ)ということ、そして教師と児童生徒との関係を極力平等にするという前提のもとでは、昔できたたくさんのことができなくなっても仕方ないだろうということです。外の人は誰もそんなことを思いませんが。