カイト・カフェ

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「AIは電気羊の夢をみるのか?」~教師がAIに取って代わられる日①

 オックスフォード大の研究によると
 今後10~20年程度で 地球上の半数の仕事がなくなってしまうという
 荒廃した日本の教育も AIに取って代わられる日がくる
 そんなふうに考える人もいる 果たして

という話。

f:id:kite-cafe:20191120002303j:plain(「AI 7」PhotoACより)

 

【教師はAIにとって代わられるのか】

 映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」、読んだことはないのですが題名がとても気に入っています。
 ここには二つの問いがあって、ひとつは“アンドロイドは夢を見るのか”、もうひとつが“見るとしたらそれはこちら(人類)側のものか、あちら(機械・コンピュータ)側のものか”というものです。ともに深刻な問いと言えます。

 先日ある討論番組で、“教師が教師をいじめる現在の学校。あなたは自分の子や孫を、人間ではなくAIに任せたいと思いますか”と問う場面がありました。驚いたことに答えは半々だったのです。

 賛成派は、すでにイギリスやスペインではAIによる教育が行われていて、コンピュータは何十万というビッグデータの中からその子の最適な学習法を見出し、カメラはその子の心理状態を読み取って的確なアドバイスを与え、意欲を喚起しているという話をしたりします。児童生徒はヘッドホンをかけてモニターに向かい、学習するのだそうです。
 一方反対派は、“AIには心がない、心のない教師に教育されて人間は育つのか”という点を強調します。

 ここまでは予想された対立点です。驚いたのは次の段階でコンピュータ学者が、
「だったら心を持ったAIが登場したら任せられるということですか?」
と問い、
「心を持ったAIだったら3年以内につくられます」
と言うのです。
 それに対して別のコメンテーターが、
「コンピュータ学者はそう言いますが、心理学関係の学者は100年経ってもできないと言っています」
と抵抗し、さらに、
「AIが心を持つということはこの地球上に二つの知性が出現するということで、次にくるのはAIによる人間の支配じゃないですか」
と警告します。

 そのやり取りを聞いていた別の出演者が、
「その問題を最初に警告したのはホーキング博士でしたよね。それに対して実はGoogleのCEOが素晴らしい発言をしているのです。“そうなったらスイッチを切っちゃえばいいじゃないか”」
と博識を披露します。

 別の出演者が、
「先生にも生徒の好き嫌いはありますよね。先生に嫌われた子どもたちは居場所をなくしてしまう。その点でもAI教師の方がいいと思う」
と言うと、先ほどのコンピュータ学者は、
「いや、最近の研究ではAIにも好き嫌いはあるということになっています」
と話をさらに面倒な方向に誘導します。

 すごくおもしろかったのですが、どこかで二重三重にかみ合っていない感じが残りました。
 混乱の原因の一つは、“心”とか“知性”、“(好き嫌いといった)感情”が不用意に使われていて、しかもそれぞれの語の定義が一致していないからだと思いました。

 

【AIは電気羊の夢を見るのか】

 “心とは何か”という問題をネットで調べようとすると話はアリストテレスまで遡ってしまい、哲学だの脳科学だの難しいことが山ほど出てきて始末が悪いのですが、心理学的には“心の理論”で一応の落ち着きを見せているように思います。

“心の理論”というのは「他者には自分と異なる意識・感じ方・考え方などがあることを理解したうえで、それを推し量る人間の機能(とりあえず)」と定義することができます。
 Wikipedia によると、
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。

 ただし私が習ったのはこれとは少し違っていて、次のような話になっています。
 20世紀の中頃、学会で「サルに心はあるのか」という議論が沸騰した際、ある哲学者がこんなことを言い始めた。
「もし、サルが罠を仕掛けて他の動物を陥れようとするのを見たら、私はサルに心があることを受け入れよう」
 これが“心の理論”の始まりである。


 この話はある研究者の講演の中で出てきたものですが、ほかのたくさんの話とともに語られた小さなエピソードで、質疑応答の時間に「その学会はなんという学会でいつ開かれたのですか?」とか「ある哲学者って誰ですか?」とか問うのは何となくためらわれてそのままにしてしまったものです。
 その時は“あとで調べりゃいいや”と思ったのですが、以後、どうしても元の話にたどり着きません。ご存じの方がおられたら教えていただきたいところですが、この“心の理論”のみをもってすると、近々“心をもったAI”が生まれるというのもあながち夢(悪夢も含めて)ではないことになります。

 人間の表情や仕草、会話内容、発音や発声など出力されるものすべてを受信、解析し、ビッグデータと照合して“心を読み取る”ということは、AIに可能というよりむしろお手の物なのかもしれないからです。
 しかしそれをもって「AIにも心はある」というと、それも何か違うような気がします。

 “心の理論”は「サルに心はあるのか」という設問から生まれたものです。そこではサルと人間の違いに注目が集まっていますが共通性には意識が向いていません。ところが「AIは心を持つのか」言い換えれば「AIは電気羊の夢を見るのか」と問うたとき、“心の理論”だけでは説明できない、人間にもサルにもあってAIにはない、別の要素の存在に気づかされるのです。

                     (この稿、続く)