政府やマスコミが繰り返す「教師の教育力の低下」といったたわごとに耳を貸す必要はありません。昔の先生は立派だったというのもウソで、正しくは「昔の先生にも偉い人はいた(そしてもちろん今もいる)」と言うべきです。
フィクションではありますが夏目漱石の「坊ちゃん」を読んでもろくな教師はいませんし、「二十四の瞳」の大石先生なんて現代の教室では瞬く間に学級崩壊を起こしそうな指導力不足教員です(子どもたちのあとを追ってビービー泣きながらついていくようでは話になりません)。
私自身の経験に照らしても、子ども時代、年じゅう酒臭い先生は何人もいましたし、生徒に教科書を読ませているうちに座ったまま眠ってしまった先生や、授業を2時間も潰して勝手な話をする先生、外国人を連れて来たはいいがどう見ても英語がうまく通じていない英語科の先生など、どれもこれも大したものではありませんでした(もちろん大した先生もたくさんいました)。
ただ確実にいえることは昔の子どもの被教育力(教育を受け入れる力)は今よりも高く、どんなにつまらない授業でも耐えて静かに聞いていました(今の私は大したものではありませんが、児童生徒のときの私はかなり立派だったともいえます)。
昔の子どもたちはつまらない授業でもよく聞いていた―それに関して、「昔の先生は威厳があった」とか「昔は大学出というのがかなり少なく、そのぶん尊敬されていた」とか、あるいは「家庭が無条件で学校や教師を尊敬していたから」とか様々に言われることがありますが、私個人に関して言えば、おとなしくしていたのは尊敬していたからでも家庭の影響のためでもありません。怖かったからです。とにかく昔の先生はよく殴りました。しかもしばしばそうとう不条理(と当時は感じました)に殴るので、静かにしていないわけには行かなかったのです。
私はいまさら体罰は必要だとは言いませんし、体罰で子どもは育たないという考えに組してもよいと思っています。しかし殴られた子が暴力によって良くなることはないにしても、私のような「普通の子」にとっては、強烈な抑止力として働いていたことは事実でした。怖いから黙っている、殴られてはかなわないから眠らずにがんばっている、そうした中で教師の話を否応なく聞き続け、聞いているからよく分かる、聞いているから話の内容に価値があることが理解できる、そういうことは限りなくあったはずです。
体罰禁止がいけなかったといっているのではありません。体罰を全面的に禁止しようとしたとき、それに代わる抑止力を用意しなかったことに間違いがあったと思うのです。
たとえばそれは「こういうことをしたら、こうなるよ」といった校則の整備と確実な実施(アメリカがこれをやっていて、必要に応じて放校処分にしたりします)、あるいは教員の大量投入による生徒指導・生徒相談の充実(フィンランドがこれにあたります)とかいったことです。
古くて残酷な武器(暴力)を取り上げても新しい武器(制度や人員)を与えなければ、教育という真っ向勝負で負けがかさむのは火を見るより明らかです。
ただし実際の日本の学校では「暴力総控え」の状況にもかかわらず、かなりうまくやっています。
言うまでもなくそれは、現在の先生方が非常に優秀だからです。