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「体罰の問題」③〜体罰の優れた教育力

体罰の優れた教育力」。副題にそう書くのはなかなか勇気のいることです。誤解されやすいに決まっていますから。しかし日本の教育が長く体罰の伝統としてきた以上、そこには誘惑的な魅力があったことは確かです。教育学は基本的に経験の学問ですから理論的に説明できるかどうかより実質的に教育効果があるかどうかが問題になります。そしていつのころから“体罰”の教育力は教師によって認知され、学校社会に根づくようになったのです。

 体罰はどのように教育に有効なのか。
 その最初の答えは、規律保持です。体罰を支持する人々の多くは組織運営上すべての集団には信賞必罰が重要だと考えています。“賞”が「賞賛」や「賞状」なら、“罰”は叱責ということになりますが単に怒鳴っただけでは通用しない場合、何らかの措置が必要になります。日本の学校は安易に自宅謹慎や停学、他校への転校勧告といったことはできないので残るのは“体罰”ということになります。
 もちろんそれは一人ひとりに丁寧な指導ができれば克服できる問題です。しかし「40人近い児童生徒一人ひとりへの丁寧な指導」は形容矛盾です。ひとりひとり丁寧にやっていたら40人の指導はできませんし、全員くまなく平等に扱っていたら一人ひとり丁寧にするだけの時間は残っていません。「即座に」「短時間に」となると体罰への依存が高まります。

 ところで「学校は“いじめはぜったいに許さない”という強い態度で児童生徒に臨まなければならない」といった言い方があります。マスコミによってしばしば提示されるものですが、「絶対に許さない」と宣言したあとでそれにも関わらず“いじめ”が起こった場合、学校はどう対処したら良いのでしょう。
 大昔だったら答えは簡単でした。“絶対に許さない”といったことをやった生徒はボコボコに殴られたのです。生徒の側もそれを覚悟でやりました。
 警察のない国家がないように、暴力装置を持たない権力は存在しません。昔の教師はこうして力を振るったのです。

 しかし、そうした話をすると必ず持ち上がってくるのは、「体罰は人を育てない」「恨みを持つだけで心から反省することはない」というものです。
 これはまったくその通りです。
 学級のような集団の中で一人を立たせ、体罰にまでいかずとも嵐のような罵声で怒鳴りつけてみればわかるのですが、立たされた本人は素直に反省したりはしません。下を向いて唇を噛み、密かに復讐心を燃やしているのがオチです。
 しかし周囲にいる「その他の子どもたち」は別です。彼らも下を向き、怒られる仲間を見ないようにしていますが考えているのはまったく別のことです。
《あんなふうに、なりたくない》
 これが体罰の抑止力です。昔の教師が体罰を多用した本当の理由はそこにあります。目標は本人ではなく「他」なのです。

 少し修行を積むと教師たちは心に響く良い話や指導法を身につけます。熱心な教師なら積極的にそうしたものを採取して回ります。しかしそうした良い話や指導も、とりあえず耳を貸してもらわなければ始まりません。子どもにはまず、“聞く”姿勢が求められているのです。
 体罰という抑止力によって、学級全体に広まった静けさ素直さの中でようやく話が通る、そして子どもが育つ。そう考える教員は少なくなかったのです。

 体罰の抑止力と効果の普及性についてはあとで再び触れるので、今日はここまでとします。体罰の第二の有効性は、怒りの昇華、ステージ・アップ、そんな言葉で表現できるものですが、それについても明日以降、お話したいと思います。紙面が足りなくなりました。

(この稿、続く)