カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「ルールがあってもほとんど苦しまずに済む子たち」~ルールは単純で、少なければ少ないほどいい④

校則にしろ家庭内の決まりごとにしろ、
それらにがんじがらめになって苦しむ子たちがいる。
一方で、同じ境遇にあってもまるで苦にならない子たちもいる。
彼らの意識しなくてはならないルールが、あまりにも単純で数少ないからだ。
という話。(写真:SuperT)

【躾ができているからこんなに自由】

 写真は我が家のミニウサギのミースケです。本名は「ミルク」ですがいつの間にかミースケになってしまいました。ウサギの飼育目標は10年と言われる中で、現在11歳ですからなかなか頑張ってきました。
 以前は3羽で飼っていた時期があり、他の2羽は「カフェ」「ココア」という名前でした。それぞれ7年目と8年目に死に、残った「ミルク(ミースケ)」だけが、のんびり室内で放し飼いになっています。床のマットのレイアウトが変なのは、床歩きがへたくそなミースケのために通路を残しているからです。冬になったら部屋全体に敷き詰め、遊び場を増やしてやります。
 
 他の2羽はこんな贅沢は許されませんでした。
 ウサギというのは案外縄張り意識が強くてすぐに喧嘩になるのと、ミースケの妹のココアだけがメスで、妊娠の問題があったからです。だったら1羽ずつ、時間を決めて部屋遊びをさせてもよさそうなものですがそれもできません。カフェは下(シモ)の躾が悪くてすぐにオシッコをしてしまいますし、ココアは性格が獰猛でカーテンや壁紙を食いちぎってしまうからです。ミルクだけがおっとりと大人しく、トイレもしっかりしていました。でも1羽だけに特権を与えるのも気が引けて、結局ひとりボッチになってからの放し飼いです。
 
 それからしばらくして、ある日帰省した娘のシーナが自由に走り回るミースケを見て、ため息まじりにこんなことを言いました。
 「躾がしっかりできていると、こんなに自由なんだね」
  3羽の中でカフェだけが元シーナの飼いウサギで、トイレット・トレーニングに失敗したために部屋に放つわけにはいかなかったのです。

【目標に縛られる子は、それ以外で縛られない】

 地方の高校では偏差値が高い難関公立校ほど、校則がゆるく自由度が高いことが知られています。私の市の最難関校では入学説明会で保護者から、「服装は自由なんですか?」と聞かれた担当者が「自由です」と答えたあとしばらく逡巡して、「ただ、稀にパジャマで登校したりする生徒がいますので、そのあたりはご指導願います」と答えたとか。伝説ですがいかにもありそうなのでみんな信じています。
 
 偏差値の高い高校ほど自由なのは頑張ったことへの「ご褒美」というわけではありません。悪さをしてもせいぜいが「パジャマ登校」くらいで高が知れているからです。彼らのほとんどは小さなころから「頭がいい」「成績がいい」と誉められてきた子たちです。自分の能力への信頼もあり、多くは勉強が楽しくてしょうがない。
 サッカーの上手い子が次々と敵をかわすように、あるいは一流ゲーマーが片っぱし敵を倒して前に進むように、難問を次から次へと解決していくことが楽しくてしょうがない、少なくとも一度はそういう有能感・達成感・自己効力感を味わったことのある子たちです。勉強に忙しくて他のことをやっている暇がありません。だから放っておいてもかまわない――。
 
 同じことは高校球児や吹奏楽部員などにも言えます。
 先日お話しした元阪神タイガースの選手で会計士の奥村武博さんも、高校時代は甲子園からプロ野球という夢を持っており、しかも試合出場の条件が「日商簿記検定2級に合格すること」でしたから練習と勉強で、とてもではありませんがゲームどころではなかったはずです。やったかもしれませんが、おそらくそこそこだったはずです。彼らもまた忙しいのです。
 校則も部のきまりもあったでしょうが、生活指針のような部分以外、あまり関係なかったはずで、その意味では自由でした。

 そいうした子たちを、私はいくらでも想像できます。さかなクンのように誰よりも魚に詳しく魚と遊んで飽きることがない子、レゴブロックで子ども部屋が全部自分の王国であるような子、学校で一番の虫取り名人、誰にも負けない鉄オタ・・・。彼らはそうした世界で一番であり続けるために、他のことはたいてい我慢できます――というよりあとのことはどうでもよく、つまり自由なのです。

【小さな時から育ててやれば本人も楽なのに】

 すでになくしてしまって久しいので示せないのですが、かつて私は躾に関する面白い資料を持っていました。それは、
「3歳の頃に躾項目が六つも七つもあった子は、10歳の段階で項目が1~2個程度に減るが、3歳で1~2個だった子は逆に増え続ける」
というものです。
 考えてみれば当たり前です。子ども時代に身につけなくてはいけない躾なんて何百項目もあるわけではないのです。それを早めに初めて早く終わらせるか、次々と追加していくかだけの違いです。ただし身につきやすいかどうかは別です。
 この件に関しては、昔からたびたび引用している明治初期の女性、和田英さんの言葉を再掲して終わりにしましょう。

 松を見よ
 子を育てるには、授乳の時期からだんだん仕込むようにしなくてはだめだ。
 まだ小さいからといって、気ままにさせておいて、さあ大きくなったからといって、急に行儀だ言葉だとやかましく言っても、直るものではない。
 あの植木を見なさい。小さい時からいつも気をつけて手を入れた木と、生えてきたまま自然にしておいた木と、どのくらい違いがあるかしれない。
 大きくなって枝を曲げたり切り込んだりしてみても、木が傷むばかりで、とても小さな時から手を入れた木のようにはならないものだ。
 それと同じことで、はいはいをしない前から気をつけて教えていけば、ご本人は少しも難儀ともつらいとも思わずに、自然にいろいろ覚えるけれど、大きくなってしまってから急に行儀を教えると、本人は窮屈で苦しいものだから、人前ばかりで行儀をよくしても、人のいない所ですぐくずしてしまうので、とてもほんとうの躾はできない」                   
 (和田英「我母之躾」より)
 
 (この稿、終了)