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「卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか」~地域の人々に対する感謝とお披露目の式、自分一人の命ではないと自覚する日

 卒業式をもっと簡略化できないか、
 もっと楽しいものにできないかという人がいる。
 しかし待ってほしい。
 あれは単なるお祝いの会ではないのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【卒業式の日取りは案外バラバラ】

 さてその前にーー。
 令和5年度(2023年度)の卒業式の日取りは全国平均でどのあたりかというと、これが案外厄介です。
 私は始業式や終業式、長期休業の日程などについてはいつも「日本文化研究ブログ」というところを参考にして、それでも足りなければさらに調査するのですが、それによると小学校の卒業式で早いところは3月12日(福井県福井市)、遅いところで3月25日(東京都新宿区、岐阜県岐阜市)と、二週間近い開きがあるのです。土日祝日を除く授業日数で8日、時数で48時間の差。小学校で言えば「特別の教科である道徳」と「特別活動」、中学校ではそれに加えて「音楽」や「美術」「技術・家庭」の年間時数が35時間ですから、45時間というのはたいへんな数字です。
 
 もっともそれは3月だけの話で、東京都や岐阜県が夏休みや冬休みを長く取っていれば福井県よりもたくさん授業をやっているということにはなりません。年間を通せば、おそらくトントン程度にはなるでしょう。
 ただ今年は4月1日が月曜日ですから、東京都や岐阜県の先生で遠方へ転勤される方は、わずか1週間で学校の事務を閉じ、自宅の引っ越し準備をして引越しし、最低の荷解きをして赴任先に出勤しなくてはならないのですから、これは容易ではありません。23日・24日の土日なんて、死ぬほど忙しいことになっているのかもしれませんね。
 
 全体を見回すと、卒業式が比較的集中しているのが今週末22日(金)の11府県、今日18日(月)と明日19日(火)にそれぞれ11府県、8県といったところで、先週金曜日(15日)にやってしまったところも7県あります。変わったところでは土曜日実施の奈良県(16日)・宮崎県(23日)。
 どういう判断なのでしょう?

【卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか】

 さて、卒業式というとこのところ毎年のように話題になるのが、あのような格式ばった、退屈で、在校生ばかりでなく卒業生にとっても苦痛である式を、なぜやらなくてはならないのか、という問題です。具体的な解決策として、「来賓の祝辞はいらない」「校長先生の話も10分以内に」「在校生の出席もなくていい」「卒業証書授与だけでもいではないか」「もっと楽しい会にできないか」等々、さまざま提案がなされます。
 
 これに関して、最近「X」上に「卒業式はなぜビシッとしなくてはいけないのか」を課題として授業を行った先生の記録が、板書の画像をともに投稿されて話題になりました。なぜか今は削除されてしまって閲覧できないのですが、その先生は学習指導要領の「特別活動→儀式的行事」の記述、
「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと」
を頼りに、
「真剣で、新鮮な感動を味わうことによって、中学校でもがんばるぞ、という気持ちになるよう活動を行うこと」
 つまり、
「真剣に取り組むことでしか味わえない感動がある、らしい(だから頑張ってビシッとやろう)」
というところに落とし込んだわけです。しっかりやることで、キミにも得られるものがあるよ、ということで、なかなか優れた実践かと思いました。

 それもいいのですが、私はこの問題に別の方向からアプローチしました。それは最も古い卒業式の形式から導き出された、

「卒業式は、納税や見守りといった形で6年間(3年間)子どもたちを支えてくれた地域の人々に対する、感謝とお披露目の会(だからビシッとしなくてはならない)」
というものです。

【地域の人々に対する感謝とお披露目の式】

 ひとり子どもがゼロ歳から18歳になるまでに、地方公共団体がつぎ込む税金は1千万円だと聞いたことがあります。それも20年以上も前のことですから、現在はさらに高額になっているかもしれません。それだけの金額をインフラ整備だとか社会福祉に使わず、教育に回してくれているのですから、「ここまでやりました」と、どこかの時点で報告をしなくてはなりません。それが「卒業式」、正式には「卒業証書授与式」です。

 入学式にも始業式・終業式にも正式な名前はないのに、卒業式だけは正式名があるという点には注意しなくてはなりません。なぜならその意味が「卒業証書を授け与える式」つまり、「与える側」が主体だからです。
 よく言われる「卒業式は子どもが主役」は間違いでないにしても、主催者(プロデューサー)は卒業証書授与者である教育委員会であり、評価者(観客)は納税者である市町村民なのです。そのことは古い卒業式の式次第を見るとすぐに分かります。

  1. 開式の辞
  2.  校歌斉唱(現在は国歌斉唱)
  3.  学事報告
    ・学校が卒業生に対して行ってきた教育内容を教育委員会に報告する(普通は教頭の仕事)。
  4. 教育委員会告示
    ・学事報告を受けて、最高学年生の卒業を認定する。
    ・短く「◯◯小学校6年生、男子◯◯名、女子◯◯名、計◯◯名 全員の卒業を認む」とか「今年の卒業生は男子◯◯名、女子◯◯名、計◯◯名です」という言い方になる。
  5. 卒業証書授与
    ・ひとりひとりに証書が授け与えられる。
  6. 校長挨拶
    ・卒業生および保護者への祝辞と地域住民への感謝
  7.  来賓(地域代表)祝辞
  8.  在校生送辞
  9.  卒業生答辞(校長挨拶・来賓祝辞・在校生送辞を受けての答辞)
  10.  保護者謝辞
    教育委員会および納税等によって支えてくださった地域住民、教職員に対する感謝の言葉を述べる。
  11. 合唱(校歌または卒業の歌)
  12.  閉会の辞

 主催者が教育委員会なので、入学式では来賓席の筆頭に座る教育委員会代表が、卒業式では校長の上座に座り、古くは来賓を会場にいざなうのも教委代表の仕事でした。

「とんでなく高額な税金を使って、私たちはここまで成長できました。ありがとうございました。これからもしばらく自治体の支援を頼りに私たちは成長していきます。いつか恩返しをします。だからもうしばらく私たちを見守ってください」
 それが卒業式なのです。だからビシッとしなくてはいけません。
「こんなつまらないものを育てるために、高い税金を払っているんじゃない」
 そんなふうに思わせるのはあまりにも不道徳です。

【自分一人の命ではないと自覚する日】

 同じ意味で保護者も地域住民に感謝の意を表しなくてなりません。それが「謝辞」です。
 メディアが言うように「学校が卒業式で保護者に『謝辞』を要求するのが僭越だ」ということなら、冒頭で、
「教職員の方たちへの感謝の気持ちは1ミリもありませんが――」
と宣言してくださってもかまいません。どうせ給与をもらっている身です。しかし地域の人々とその願いの具現化した教育委員会には、感謝の気持ちを表してもらわなくてはなりません。
 親が心から感謝する姿を見せて印象づけることで、子どもに自分の命が自分一人のものでないことを思い知らせるのです。命や成長が自分一人のものならすべて自己責任、どう扱ってもかまいませんが、他者に支えられてあるものなら、おろそかにしてはいけないということになります。

 保護者が「子どもは自分たちだけで育ててきたわけではない」ことを確認し、子どもも「親や地域に支えられて成長してきた」ことに思いをいたす――それが卒業式です。だから御覧なさい。来賓席には区長会長を筆頭に区長・民生児童委員・敬老会代表・児童館館長等々、地域の代表者がワンサカ来てるでしょ。

(参考)kieth-out.hatenablog.jp