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「中宮彰子と、これから出て来るかもしれない宮廷サロンの人々」~今さら大河、今から大河(⑤最終)

 長命でなければ人格も磨けない。
 中宮彰子は長く生きることによって手腕を磨き、
 だからサロンは豊かになった。
 その一人ひとりを見てみよう、
という話。(写真:フォトAC)

中宮彰子のサロン】

 ノーベル賞を受賞するにはさまざまな条件がありますが、そのうち最も重要なもののひとつは「長生きをする」ことです。受賞対象の大半は30年以上も前の研究で、「これはどう転んでも価値が減じることはない」と確信が持てるまで待ってから渡すのです。ところが人間の方は待ちきれずに死んでしまうこともある。そこで意外な人がもらっていないということもあるようです。

 藤原道長の娘で一条天皇の后であった中宮彰子は、当時としてはかなり長命な86歳まで生きることによって、細かな気づかいや高い意識、政治的手腕を手に入れ、二代の天皇の母(国母)として弟の頼通とともに藤原摂関家を大いに盛り立てていきました。
「聡明で優しく、(ライバルとされる)中関白家にも贈物など礼儀や援助をかかさず生涯面倒を見た」
「栄華を極めながら思慮深く『賢后』と賞された」
 藤原実資(さねすけ)の「小右記」にはそんなふうに書かれているそうです。

 中宮彰子に仕えた女房たちから歴史に名を遺すような優れた歌人・文化人が次々と輩出されたのも、単に長生きしたというだけでなく、そこから手に入れた統率力、文化的背景によって築かれた学術的雰囲気があったのでしょう。紫式部を筆頭に、傑出した天才歌人として知られた和泉式部(いずみしきぶ)、その娘の小式部内侍(こしきぶのないし)、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門(あかそめえもん)、続編の作者と伝えられる出羽弁(でわのべん)、紫式部の娘で歌人大弐三位(だいにのさんみ)、伊勢大輔(いせのたいふ)――平安中期の文芸界の頂点がそこに形成されていました。

 しかし反面、長生きには多くの人々を見送るだけの人生という側面もあります。24歳で夫を失ったあと、年老いてからは子や孫も見送り、最後は弟の死を見届けてから自らも消えていく――あまり羨ましい人生とも思えません。長生きした分、得たものも失ったものも多かったということなのでしょう。

【これから出て来るかもしれない宮廷サロンの人々】

 中宮彰子のサロンの人々(女房とその周辺の人々)で、今後大河ドラマ「光る君へ」に出てくるかもしれない人々を百人一首をてがかりに紡ぎ出し、高校時代の復習とドラマ視聴の予習を兼ねて一人ひとり見て行きましょう。

和泉式部(いずみしきぶ)】

 和泉式部という女性は私にとって「美人」「多情」「多感」の三語で表せる人です。それだけ単純ということではなく、ひとつひとつが凄すぎて他を圧倒してしまう感じです。
 「和泉」は最初の夫の任地、「式部」は父親の役職からつけられた女房名だそうですが、その夫と別れたあとは冷泉天皇(れいぜいてんのう)の第三皇子と恋愛関係に陥り、その皇子が亡くなるとすぐに皇子の弟と新たな恋愛に入るといったありさまで、藤原道長からは「浮かれ女」と揶揄され、紫式部からは「あの方の恋文や和歌はほんとうにすばらしいのに、素行はねえ」とため息をつかれる始末です。男女関係に比較的緩かった当時の宮中にあっても突出した破天荒で、奔放な生涯を送った人のようです。
 百人一首に採られた和泉式部の歌は、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな
(私は間もなく死んでこの世にはいなくなるでしょう。だから死んだ後のあの世での思い出にするために、せめてもう一度あなたに逢いたい)
 こんなふうに正面から詰め寄られて、うっかり逢いに行けばどうなってしまうか分からない、そんな怖さがあります。だから近寄りたいとは思いませんが、ずっと見ていたい人ではあります。

【小式部内侍(こしきぶのないし)】

 和泉式部の娘の小式部内侍も母親譲りの「美貌」「多情」「多感」で多くの恋愛経験を積んで成長してきたみたいです。しかし何より早くから受け継いで花咲いたのは和歌の才能でした。あまりにもすばらしい歌をつくり続けるため、母親に代作を頼んでいるのではないかと噂されたほどです。
 あるとき歌会の席で貴族のひとりから「もうお母さんに使いは出しましたか?」と聞かれます。《代作の依頼は済んでいるのか》という意味を含んだ意地悪です。母親の和泉式部はこの時第二の夫とともに任地である丹後(京都府北部)に下っていたので近くにはいません。小式部の内侍はすかさず歌でこう答えます。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
大江山を越え、生野を通って行く道があまりにも遠いので、まだ母からの手紙も見ていないのです)
「いく野」は「生野」と「行く野」の掛詞、「ふみも見ず」は「文も見ず」と「足を踏み入れてみたこともない」の意味の掛詞です。掛詞といえば文学的ですがいわば高級な親父ギャグ。私は和歌のそういうところが好きです。

 残念なことに小式部の内侍は二人目の子を産んだ25歳の時、母親よりも先に亡くなってしまいます。このとき和泉式部が読んだ哀傷歌は次のようなものでした。
とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり
(自分の子どもたちと母親の私を残して亡くなった小式部内侍は、今、誰のことを思っているのだろうか。きっと我が子を思う気持ちの方がまさっているに違いない。私があの子のことをこんなに思っているのと同じように)

【権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)】

 ところで小式部内侍の「大江山~」の際、意地悪な質問をした貴族はすぐに対応できず、本来ならば和歌で返さなくてはならないところを赤面してやり過ごしてしまったようです。
 私はこの話が好きでしばしば児童や生徒に話したりしましたが、その貴族にはあまり興味がなく、誰だったのかも覚えていませんでした。今回確認のために改めて調べると藤原定頼(ふじわらのさだより)という人で、なんとあの藤原公任(ふじわらのきんとう)の息子だったのです。父親に似て和歌・管弦・書などに優れ、容姿にも優れていたため非常にモテたといいます。百人一首にはこんな歌を残しています。
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代
(夜がほのぼのと明けてくるころ、宇治川一面にたちこめていた川霧が絶え間を見せ始める。すると見えてきたのは、浅瀬ごとに仕掛けた網代木(あじろぎ*1)だった)
 もしかしたら本人が朝ぼらけみたいな人だったのかもしれません。
*1:竹や木を組み合わせて作った漁の仕掛け

大弐三位(だいにのさんみ)】

 紫式部の娘(*2)。小式部内侍と同じように母親の才能を強く受け継ぎ、和歌と漢詩に優れ、また美貌の持ち主だったようです。16歳で母と死別し、そののち中宮彰子のもとに出仕しました。
 百人一首に採られた和歌は、
ありま山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
(有馬山に近い猪名〈いな〉の笹原に風が吹けば、笹の葉は「そよ」(*3)と音を立てる。そうよ、それですよ。私があなたのことを忘れるなんてこと、あるはずがないでしょ)
 今度は女性の方がやや意地悪に責める言い方をしています。平安の貴族社会というのは粋と言えば粋、面倒くさいと言えばほんとうに面倒くさいものだったようです。私は嫌いではありませんが。
*2大弐三位は二人目の夫が正三位(しょうさんみ)で太宰大弐(だざいのだいに:大宰府の次官)であったところからついた。
*3「そよ」は笹の葉のこすれ合う音の「そよ」と「そよ(そうよ)!」の掛詞。

伊勢大輔(いせのたいふ)】

 伊勢大輔百人一首に採られた次の和歌で、一発で有名になった人です。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(歴史ある奈良の都で咲いていた八重桜が、今日はこの宮中に一段と美しく咲き誇っているのです)
 紫式部が出仕したころの宮中には、春、藤原氏の氏寺である奈良の興福寺から桜の花を献上する儀式があったようです。それを受け取ってその場で和歌を詠む仕事は、本来紫式部の役目でした。ところがその年(1008年ごろ)初めて出仕した伊勢大輔が和歌の名家の出で、そこで様子見の意味もあったのでしょう、桜を受け取る役目が式部から大輔に譲られたのです。
 急な変更に大輔もおそらく極限まで緊張していたと思うのですが、いざ儀式が始まると今度はそこにいた藤原道長までもが「早く歌を返して!」などとはやし立てるのです。そして詠んだ歌が「いにしへの~」でした。
「いにしへ(古:いにしえ)」と「けふ(今日:きょう)」、「八重」と「九重」が対になり、「けふ(今日)」と「京」、「九重」と「ここの辺」と「宮中」が掛詞。「奈()良の都の 重桜 けふ重に」と数字で韻を踏む手続きになっています。これには中宮彰子を筆頭に大喝采であったといいます。
 私にとってはまたもや親父ギャグの世界で大好きな歌です。

 ちなみに記憶力に問題のある私に百人一首すべての暗記などできるはずもなく、かるた取りでは勝負にならない。そこで内心、《とにかく小式部内侍の「大江山~」と伊勢大輔の「いにしへの~」と、そしてなぜか喜撰法師(きせんほうし)の「我が庵は~」の三枚を取ったら自分の勝ち》と決めて、9割がたは勝っていました。最初からその三枚を睨みつけているのですから強いのです。

左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)】

 百人一首歌人NHK大河ドラマ「光る君へ」で扱ってもらえそうな最後のひとりは、左京大夫道雅(藤原道雅:藤原の道雅)です。たぶんギリギリ入らない。
 
 私はこの人についてまったく知らなかったので、初めて調べてびっくりしました。現在進行中のドラマ「光る君へ」でもっとも激しく動いている藤原伊周(ふじわらのこれちか:三浦翔平)、つまり儀同三司(ぎどうさんし)と呼ばれるその人の息子なのです。別の関係から見ると藤原道長柄本佑)の長兄・道隆(井浦新)と儀同三司母(ぎどうさんしのはは・本名は高階貴子:板谷由夏)夫妻の孫にあたる人物で、父親が行った「長徳の変」による没落の中で育ってきます。そのせいか性格は粗暴で残酷。それも尋常なレベルではなく、乱暴狼藉のために従三位以上に昇進できなかった道雅を、人々が悪三位・荒三位と呼んだほどです。
 ただ和歌には才能があったようで、いくつかの歌集で歌が拾われています。百人一首に採用されたのは次の歌。
 今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
(今はひたすらあなたのことを諦めてしまおうとしている。ただそれだけを人伝ではなく直接伝えたいものだ)
 ときどき神様は、なんでこんなヤツにと思うような人間に才能を与える場合があります。道雅もその一人のようです。

【付記】

 紫式部が「日記」の中で清少納言を批判しているという話があります。「高慢で漢字をやたら使いたがるが間違いも少なくない。ひとと違っていることを吹聴するような人の行く末はしれたものだ」といった内容です。
 しかし実はその続きが長く、自虐的で、よほど面白く仕上がっているのです。ほんとうにおもしろいので、それについて詳しく書いてある東洋経済新聞の記事にリンクをつけておきます。

toyokeizai.net

紫式部、現代のSNS的な痛烈「清少納言」批判の中身~1000年前に記されたあまりに現代的な感性
(この稿、終了)